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巻物の終わりにいる(être au bout du rouleau)
投稿日:2022年8月20日
こんにちは。バゲットです。
近年、日本の忍者アニメ『NARUTO―ナルトー』(←私は見たことがないのですが)が、フランスでも大変な人気を泊しているそうです。
「忍者」と言えば、私が小学生だった昭和40年代は、忍者マンガ/アニメ(+映画)の全盛期でした。『伊賀の影丸』『忍者ハットリくん』『サスケ』『仮面の忍者 赤影』・・・。詳細は覚えていませんが、マイナーなものも含めれば、他にもたくさんあったように思います。それらの忍者マンガ/アニメで「定番」となるアイテムは、(「時代劇一般」に共通するものを除けば)まずは「手裏剣」、さらに敵役が用いる(主人公は決して使わない)「鎖鎌」、そして「巻物」ではないでしょうか。
そうした「巻物」には大抵、ある流派の忍術の「究極奥義」(例えば「龍に変身する術」とかw)が記されていて、それを手にした者はこの「奥義」を身につけ、最強(!)の忍者となることができる。かくして数多の忍者たちが、その「巻物」を手に入れるため、血で血を洗う抗争に身を投じるのです・・・。
夢多き小学生であった私は、当然のごとく、そうした「巻物」を巡る妄想に取り憑かれたものでした。例えば(ヴァージョンはいくつもあるのですが)・・・家の近所の山中(←私の実家は本当に「山中」にあるのです)を探検していた私は、偶然、ボロボロになった廃寺を発見する。廃寺の裏手には小さな祠(ほこら)があって、その戸を開いてみるとひどく古ぼけた「巻物」が置いてある。恐る恐るその巻物を解くと、そこに書かれているのは(←どういう訳か小学生の私に読めるのですw)「上総(かずさ/私の実家のある地方)流忍法」の秘技「飛龍の術ww」の極意だったのです。そして私は、一年にも及ぶキビシイ自己鍛錬の末、ついに「飛龍の術」を会得することになる。こうして、究極奥義を身につけた正義(!)の小学生忍者(www)である私は、日本の平和を守るために悪の忍者組織と激闘を繰り広げ、常に勝利し、遂には当時人気絶頂のアイドル歌手(で私も憧れていた)「S」 のハートを射止めるのです(wwww)・・・。
女性読者の方々は「バカバカしい」とお思いでしょうが、小学生の男の子の考えることなんて、皆、こんなもの(↑)ですよ。
・・・ということで、今日のテーマは「巻物」です。
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さて、フランス語に“être au bout du rouleau/巻物の終わりにいる”という表現があります。ネットで検索してみると(https://fr.wiktionary.org/wiki/au_bout_du_rouleau)、“(figuré) Moralement épuisé, découragé/(比喩的)精神的に疲れ果てた、落胆した”、“(figuré) Ruiné, sans le sou/(比喩的)破産した、一文無しで”、“(figuré) Ayant épuisé tous ses moyens/(比喩的)全ての方策を使い果たした”とあります。ですから、“Je suis au bout du rouleau/私は巻物の終わりにいる”と言えば、「私はとても落ち込んでいる」、「私は一文無しだ/全然お金がなくて困っている」、「(あらゆる手を尽くしたが)万事休す」という意味ですね。
言い回しの起源は、中世の演劇にまで遡ります。当時、俳優たちのセリフは巻物に書かれていて、小さな役しか貰えない役者はすぐに「巻物の終わり/au bout du rouleau」に行ってしまい、話すこと、することが何もなくなる。このことから17世紀の終わりになって、現代のような意味が生まれたそうです。
もっとも、そんな由来など考慮しなくても、例えばセロハンテープやトイレットペーパーのような「巻物」を考えてみれば、その「終わりにある」ことがどんな意味になるかは、容易に想像がつくでしょう。
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以前も書きましたが、私は現在、サルトルについての論文を準備しています。3月の初旬に取りかかり、4月以降は大学の授業(とその準備)も多忙を極めて、全く休暇を取れない状態が続いています。当然、純文学系の小説を読む暇などなく、NetflixやNHKのドラマは見ているのですが、心の底から揺さぶられるような「根源的な娯楽(?)」にはなりません。ストレスはたまる一方。大げさになるのでしょうが、本当に、“Je suis au bout du rouleau/私は巻物の終わりにいる”と言いたい気分です。