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「投稿者アーカイブ:baguette」一覧

インゲンマメのために働く(Travailler pour des haricots)

2022/12/19  -ブログ

こんにちは。バゲットです。 もうすでに20年近く昔になりますが、私は一時、テレビドラマや映画のエキストラをして遊んでいたことがあります。NHKの大河ドラマでは「新撰組(香取慎吾主演/2004年)」と「義経(滝沢秀明主演/2005年)」に「出演w」し、その翌年のものには出ていませんから、2004年の夏休み(←これは確か)に始めて、1年と少し続けたようです。 どのような経緯と発想で始めたのかは、全く覚えていません。ただ、子供のころから俳優には憧れていたので、ある時、ふと思い立って、ネットでエキストラ・プロダクションについて調べたのでしょう。その後、実際に三つのプロダクションに赴いて、エキストラ登録したことははっきりと記憶しています。 仕事で撮影現場に入って、有名な俳優さんたちを間近に見られるのはなかなか楽しかったです。美人女優さんたちにも何人かお会いしました。「こちらから話しかけてはいけない」というルールがあって(相手が話しかけてきたときは対応していい)、当然、口をきいたことはありませんが。驚いたのは、「中堅」と思われる俳優さんたちが、私と同じエキストラとして来ていたこと。実際、普段あまりテレビを見ない私でも知っている俳優さん三人にお会いし、うち二人とは直接お話もしました。そのレベルの方たちでも恒常的に「俳優」の仕事があるわけではなくて、アルバイトでエキストラをしているようです。 ただし、報酬は「最悪」で、最低賃金をほんの少し上回るだけ。一般的な衣装(スーツ)と備品(カバン、帽子、手袋など)は自腹で、集合場所までの交通費も支給されません(註・遠方の場合は別)。さらに紹介手数料(あるプロダクションでは月額1000円、別の所では毎月最初の3回だけ500円ずつでした)を徴収されるので、月に数回働くだけでは、給料は事実上最低賃金を下回ってしまいます。当時の私はことさらお金に困っていたわけではなく、趣味と「小遣い稼ぎ」でやっていたのでそれでよかったのですが、本当にお金を稼ぎたいなら、普通のアルバイトをした方がずっとよいと思います。 さてフランス語に“travailler pour des haricots/インゲンマメのために働く”という表現があります。いつものようにネットで調べてみると(Travailler pour des haricots (expressions-francaises.fr))、“travailler pour rien ou pour un salaire insignifiant/無給あるいは僅かな給料のために働く”とあります。まさにエキストラの仕事がそうですね。 上のサイトによれば、ゲームでインゲンマメが「enjeu fictif/虚構の掛け金」(現代なら、例えばプラスチックのコインのような)として使用されたことから来ている、とあります。起源については別の解釈もあって、それによれば、フランスでは全くあるいはほとんど価値のない物を「navet/カブ(小説や映画で『駄作』の意味がある)」や「radis/ラディッシュ(『僅かな金銭』の意味もある)」のような「一般に取るに足りない作物」と比較する習慣があって、「インゲンマメ」もそのような「作物」の一つだから、ということです。 「インゲンマメ」の他にも、“pour des prunes/プラムのために”、“pour des clous/釘のために”、 “pour des cacahouètes/ピーナッツのために”、“pour des nèfles/セイヨウカリンのために”もあるようです。 私の実家は千葉の兼業農家で、今でも老いた母親が(弟も少し手伝いますが)お米と野菜を作っています。米(riz)と梅(prunes)と栗(marrons)以外の野菜はほとんどが自家用で、その中にはインゲン豆(haricots)とピーナッツ(cacahouètes)が含まれます。 自分の身内が文字通り「エンドウ豆/梅/ピーナッツのために」働いていると考えると、苦笑を禁じ得ません。フランスでインゲンマメ/プラム/ピーナッツ/セイヨウカリンを生産している農家の方々は、これらの表現をさぞかし苦々しく思っていることでしょうw。

巻物の終わりにいる(être au bout du rouleau)

2022/08/20  -ブログ

こんにちは。バゲットです。 近年、日本の忍者アニメ『NARUTO―ナルトー』(←私は見たことがないのですが)が、フランスでも大変な人気を泊しているそうです。 「忍者」と言えば、私が小学生だった昭和40年代は、忍者マンガ/アニメ(+映画)の全盛期でした。『伊賀の影丸』『忍者ハットリくん』『サスケ』『仮面の忍者 赤影』・・・。詳細は覚えていませんが、マイナーなものも含めれば、他にもたくさんあったように思います。それらの忍者マンガ/アニメで「定番」となるアイテムは、(「時代劇一般」に共通するものを除けば)まずは「手裏剣」、さらに敵役が用いる(主人公は決して使わない)「鎖鎌」、そして「巻物」ではないでしょうか。 そうした「巻物」には大抵、ある流派の忍術の「究極奥義」(例えば「龍に変身する術」とかw)が記されていて、それを手にした者はこの「奥義」を身につけ、最強(!)の忍者となることができる。かくして数多の忍者たちが、その「巻物」を手に入れるため、血で血を洗う抗争に身を投じるのです・・・。 夢多き小学生であった私は、当然のごとく、そうした「巻物」を巡る妄想に取り憑かれたものでした。例えば(ヴァージョンはいくつもあるのですが)・・・家の近所の山中(←私の実家は本当に「山中」にあるのです)を探検していた私は、偶然、ボロボロになった廃寺を発見する。廃寺の裏手には小さな祠(ほこら)があって、その戸を開いてみるとひどく古ぼけた「巻物」が置いてある。恐る恐るその巻物を解くと、そこに書かれているのは(←どういう訳か小学生の私に読めるのですw)「上総(かずさ/私の実家のある地方)流忍法」の秘技「飛龍の術ww」の極意だったのです。そして私は、一年にも及ぶキビシイ自己鍛錬の末、ついに「飛龍の術」を会得することになる。こうして、究極奥義を身につけた正義(!)の小学生忍者(www)である私は、日本の平和を守るために悪の忍者組織と激闘を繰り広げ、常に勝利し、遂には当時人気絶頂のアイドル歌手(で私も憧れていた)「S」 のハートを射止めるのです(wwww)・・・。 女性読者の方々は「バカバカしい」とお思いでしょうが、小学生の男の子の考えることなんて、皆、こんなもの(↑)ですよ。 ・・・ということで、今日のテーマは「巻物」です。      ※      ※ さて、フランス語に“être au bout du rouleau/巻物の終わりにいる”という表現があります。ネットで検索してみると(https://fr.wiktionary.org/wiki/au_bout_du_rouleau)、“(figuré) Moralement épuisé, découragé/(比喩的)精神的に疲れ果てた、落胆した”、“(figuré) Ruiné, sans le sou/(比喩的)破産した、一文無しで”、“(figuré) Ayant épuisé tous ses moyens/(比喩的)全ての方策を使い果たした”とあります。ですから、“Je suis au bout du rouleau/私は巻物の終わりにいる”と言えば、「私はとても落ち込んでいる」、「私は一文無しだ/全然お金がなくて困っている」、「(あらゆる手を尽くしたが)万事休す」という意味ですね。 言い回しの起源は、中世の演劇にまで遡ります。当時、俳優たちのセリフは巻物に書かれていて、小さな役しか貰えない役者はすぐに「巻物の終わり/au bout du rouleau」に行ってしまい、話すこと、することが何もなくなる。このことから17世紀の終わりになって、現代のような意味が生まれたそうです。 もっとも、そんな由来など考慮しなくても、例えばセロハンテープやトイレットペーパーのような「巻物」を考えてみれば、その「終わりにある」ことがどんな意味になるかは、容易に想像がつくでしょう。      ※      ※ ※      ※ 以前も書きましたが、私は現在、サルトルについての論文を準備しています。3月の初旬に取りかかり、4月以降は大学の授業(とその準備)も多忙を極めて、全く休暇を取れない状態が続いています。当然、純文学系の小説を読む暇などなく、NetflixやNHKのドラマは見ているのですが、心の底から揺さぶられるような「根源的な娯楽(?)」にはなりません。ストレスはたまる一方。大げさになるのでしょうが、本当に、“Je suis au bout du rouleau/私は巻物の終わりにいる”と言いたい気分です。

en faire tout un fromage

まるまる一つのチーズを作る(en faire tout un fromage)

2022/07/14  -ブログ

フランス語に“en faire tout un fromage/そこからまるまる一つのチーズを作る”という表現があります。「些細な事件を大げさに考えすぎる」とか、「状況を誇張して大騒ぎする」いう意味です。20世紀になって生まれた表現で、雌牛から絞っただけの「単純な」ミルクから、芳醇なチーズという「複雑な加工品」を作ることに由来するそうです。

やる気が出ない(J’ai la flemme)

2022/05/24  -ブログ

こんにちは。バゲットです。 皆さまも、時として「やらなくてはならないのだが/やった方がよいのだが、どうもやる気が起こらない」、あるいは「やりたくない」ということがあるでしょう。休日などには、「何をする気分にもならない」ということもあるでしょう。もちろん、私もあります。 特に大学生のころは酷いものでした。私は当時の学生としてはかなり「真面目」で、病気その他、特に理由が無い限りはすべての授業に出席していましたが(註)、何しろ夏・冬・春の休暇で一年の半分以上は「休み」です(註2)。アルバイトはしていなかったので、休暇中は生活が完全に「夜型」になってしまい、起きるのはいつもお昼頃。で、目が覚めても何もする気にならず、布団の中でグズグズしていて、夕方になってお腹が空いて、近所の定食屋に夕飯を食べに行くためにようやく起き出すということが、年に三~四回はありました。 フランス政府関係の職場で普通に「会社員」をしていたときは、別の意味で酷かった。そもそも仕事自体があまり好きではなかったので、朝起きると必ず「行きたくないなぁ・・・」と思う。それでも休むわけにもいかず、イヤイヤながら支度をして家を出て、駅で電車に乗り込むと、突然アタマが「戦闘モード」になって、「よし、今日もやるぞ!」という気分になる。毎日がそれの連続で、「ズル休み」したことは一度もありませんでしたが、結局二年もしないうちに辞めてしまいました。 こうした「気力の欠如/怠惰性向」は、その後、年齢を重ねるに従って「マシ」になってきましたが、それでも完全になくなるはずもなく、実はこの原稿を書いている今日もそうでしたw。ゴールデンウイークの初日で、朝、休暇開けの授業の資料を大学のウェブサイト(授業支援システム)にアップして、5月5日まで大学関係の仕事は何もしなくてよくなったのですが、それからがどうも気合いが入りません。結局、語学の勉強を一時間して、今日の朝刊と、昨日の新聞の読み残し記事を読んだだけで、もう夕方の5時半。今日の「ノルマ」として30分、この記事を書いています。    ※        ※      ※ さて、フランス語に“avoir la flemme”という表現があります。いつものようにネットで検索(https://www.linternaute.fr/expression/langue-francaise/20588/avoir-la-flemme/)してみると、“ne pas avoir envie d’effectuer une tâche/するべき任務を実行したいと思わない”。別のサイトも見ると、“se laisser aller à la paresse, l’oisiveté/怠惰、無為に身をゆだねる”、“faire le fainéant, paresser/だらだら過ごす、怠ける”とあります。要するに「仕事があるのに、やる気にならない」とか、「何もしないでウダウダしている」という意味ですね。 “J’ai la flemme aujourd’hui/今日は何もする気にならない”のように、単独で使うこともできますし、“de+不定法”をつけて、“J’ai la flemme de faire la cuisine/どうも、料理をする気分じゃないよ”のように言うこともできます。いろいろなケースで使えますから、覚えておかれるとよろしいかと思います。      ※      ※      ※ 実を言うと、私は現在、ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre)についての論文を準備しています。面白い着想を得たので書いてみようと思ったのですが、私がサルトルをテーマに最後に論文を書いたのは、もう23年も昔のこと。かなり多くのことを忘れており、キチンとした論文を書くためには、私はもう一度、彼の著作を読み返さなければなりません。しかし、どうも気分が乗って来ないのです。 一般にサルトルの哲学は、現代では「すでに乗り越えられた思想」とみなされていますし、そもそも私自身がそのような立場を取っているので、今サルトルを勉強しようとしても、「今更こんなものを読んで、何になるの?」という気分、一種の「無益感」を拭い去ることができないのです。“J’ai la flemme de lire Sartre/サルトルなんて、読む気分にならないね”(苦笑)。   (註)私が大学生だった1980年代(およびそれ以前)は、「勉強は自分でするもの」と考える風潮が強く、大学の授業はあくまでも「出席したい人が出席する」ものでした。 (註2)当時、私の母校では年間の授業数は24回だったように記憶しています。

一年の12の月(les douze mois de l’année)

2022/04/27  -ブログ

こんにちは。バゲットです。 前回は「曜日」について書いたので、今回は「月(les douze mois de l’année/一年の12の月)」について書きましょう。フランス語で1月〜12月は、janvier(1月)/février(2月)/mars(3月)/avril(4月)/mai(5月)/juin(6月)/juillet(7月)/août(8月)/septembre(9月)/octobre(10月)/novembre(11月)/décembre(12月)。英語と違って、文頭以外、最初の文字は大文字になりません(これは「曜日」も同じです)。まず言っておきたいのは、9月〜12月は「数字」に対応しているということ。sept(7)/septembre、neuf(9)/novembre、dix(10)/décembreで、10月(octobre)の“octo”は「8」の意味。英語で「タコ」を“octopus”と言うのは、足が八本あるからですね。皆さま既にお気づきのように、この「数字」と「月」は二つずつずれています。これは、古代ローマの最初期には、一年が3月から始まっていたからです。実際、ウィキペディア(註1)によると、王政ローマの初期、一年には3月から12月までの10ヶ月しか無かったそうです。真冬の60日くらいは「月」が無く、その期間は「何」月でもなかった。「月」はもともと農耕のために作られたからで、小麦の種まきが始まるころから、小麦の収穫が終わるころまであれば、それで十分だったのです。で、春になって適当に暖かくなってくると、王が「宣言」して、3月が始まったようです(註2)。後になって、それまで「月」が無かった真冬に1月と2月(=「13月?」と「14月?」)を付け加え、さらに後になって、一年の始まりを3月1日から1月(=13月)1日に変更したので、結果的に「数字」と「月」の呼称とが二つずつずれるようになった、ということです。 さて、1月〜6月は、それぞれ古代ローマ神話の「神」の名前に対応しています。1月から順に、ヤヌス(Janus)/出入り口と扉の守護神(←だからこれが「一年の始まり」=「1月」になった)、フェブルス(Februus)/死と贖罪の神、マルス(Mars)/戦いと農耕の神(←3月に農業が始まるからです)、ウェヌス(Vénus)/美の女神(ギリシャ神話のアフロディーテ[Aphrodite])、マイア(Maïa)/豊穣の女神、ユーノー(Junon)/女性の結婚と出産の女神(←「ジューン・ブライド」という表現は、このことから来ているようです)。 7月と8月は人名に由来します。ユリウス・カエサル(Jules César/ジュリアス・シーザー)が7月生まれだったため、紀元前44年、彼が暗殺された後、後継者のアウグストゥがカエサルを称えて、7番目の月の名を“Julius”と改称したのが“juillet”の起源。他方で、アウグストゥス(Auguste)自身が、自らの在位期間中の紀元前8年、8月に自分の名前を当てたことから“août”という呼称が生まれたそうです。アウグストゥス自身の誕生日は9月なのに、なぜ8月に自身の名前をつけたのでしょう。カエサルの「後」に置きたかったからかもしれません。調べてみましたが、正確なことはわかりませんでした。br> なお、「〜月に」と、時の副詞(フランス語文法では「状況補語」と言いますが)にするときは、前置詞“en”をつけて、たとえば“en avril/4月に”のようにします。また“mois/月”という語もつけて、“au mois de mai/5月に”のように言うこともできます。 ⦁      ※      ※ さて、ではなぜ、古代ローマでも現代でも、1ヶ月は30日前後なのでしょうか。それは月の満ち欠けの周期が30日弱だからだそうです。してみると、私たちのカレンダー、というか「時間性」そのものが、天文学的な事実に強く規定されていることがわかります。もしも地球の自転速度が今よりも遅く、例えば一日が48時間だったら・・・。あるいはもしも月の満ち欠けの周期が、例えば60日だったら・・・。さらに、もしも地球の公転周期が、例えば700日だったら・・・。もしそうだったら、私たちのカレンダーも「時間」も、今とは全く違ったものになっていたでしょう。生物の「進化」の過程も異なったものになっていたでしょうし、その場合、私たち人類は今頃どんな姿をして、どんな文明を築いていたのでしょうか。あるいは、「人類」など存在してはおらず、例えば体長1メートルのネズミwとか、体長30センチのゴキブリwとかが、地球の支配者だったかもしれません。まぁ、地球環境全体にとっては、その方がよかったかも知れませんがww。 註1・「ウィキペディア」の日本語、フランス語、英語ヴァージョンで、記述内容が一致していません。本稿の内容は、あくまでも「仮説の一つ」だと考えてください。 註2・これも「春分の日に始まった」とか、「月の満ち欠けで決まった(例えば最初の満月/新月)」とか、諸説あるようです。さらには、「3月から12月の10ヶ月しかなかった」という主張そのものを否定する学者もいるようです。

日曜日(le dimanche)

2022/03/29  -ブログ

こんにちは。バゲットです。 もう30年以上も前、私が初めてフランスに留学したとき最も戸惑ったことの一つは、日曜日にほとんどのお店が閉まっていることでした。大昔のことなのでよく覚えていないのですが、パン屋も食料品店もスーパーも、カフェもレストランも、日曜日にはほとんどが休業してしまうのです。学生だったので時間はあり、日用品等は平日に買っておけば問題はありません。しかし、困ったのが食事です。私が住んでいたアパート(と言うより「下宿」)には、小さなガスコンロがあるだけで、本格的な「自炊」をするのは困難でした(まあ、仮に「設備」があったとしても、私にはそもそも自炊できる「技術」がありませんでしたがw)。大学のキャンパス(←メチャクチャ広い)内には三つの学食があって、どれか一つは日曜日も営業するのですが、一番近い学食でも私の家からは歩いて20分。他の二つは遠すぎて、徒歩で行くのは困難な距離です。(これも記憶は定かでないのですが)市街地にあった中国人経営の安食堂は日曜日も営業していたので、お昼はそこで食べ、夜は一番近い学食が開いている日は学食で食べて、閉まっているときは前日買っておいたパンと缶詰、「クノール/Knorr」のスープ(←フランスでも売っていた)でしのぐことが多かったように思います。では、なぜフランスでは、日曜日にはほとんどのお店が休業していたのでしょうか。それは日曜日が、キリスト教の「安息日」だからです。 ※      ※      ※ さて、ついでですから、ここで「曜日」について復習しておきましょう。日本語の「曜日」はすべて太陽系内の肉眼で見える天体に対応しています。月曜/月、火曜/火星、水曜/水星(←見えることがあるそうです)、木曜/木星、金曜/金星、土曜/土星、日曜/太陽といったように。他方、フランス語の「曜日」で太陽系の天体に対応しているのは、lundi(月曜)/lune(月)、mardi(火曜)/Mars(火星)、mercredi(水曜)/Mercure(水星)、jeudi(木曜)/Jupiter(木星)、vendredi(金曜)/Vénus(金星)まで。samedi(土曜)はユダヤ教の安息日(sabbat)に由来するそうで、dimanche(日曜)は「主(=イエス・キリスト)の日/jour du Seigneur」。イエスが金曜日に磔刑に処せられ、日曜日に「復活/résurrection」したからです。また、復活したキリストが弟子たちの前に初めて姿を現したのも、日曜日でした。だから、キリスト教徒にとって、日曜日は他の曜日とは違う特別な日なのです。当初は「礼拝日」に当てられていたようですが、紀元321年、古代ローマ帝国のコンスタンチヌス一世が休日に定めて以来、「安息日」として定着しました。日曜日はクリスチャンにとって、働いてはならない日、休んでいなければならない日になったのです。さらに20世紀になると(1906年)、週一日の休日が労働者の権利として法制化されて、日曜日=「安息日」は法律のお墨付きを得ました。 かくして、日曜日は朝寝坊をし(faire la grasse matinée)、お昼は比較的手の込んだ料理を作って家族みんなで食べて、午後ものんびりと過ごすのが、平均的なフランス人のライフスタイル(style de vie)となったのでした。 ※      ※      ※ このように、フランスでは日曜日を休息に当てることはキリスト教の伝統であって、同時に労働者たちの権利です。だからこそ、ほとんどの商店や飲食店が日曜日は休業していたのですが、この国際化(mondialisation)の時代、特に観光地の商業施設や飲食店では、旧来の習慣をいつまでも固持しているわけにもいきません。さらに、「規制緩和」や「雇用の増大」(←日曜日も営業するためには、従業員数を増やさなければならない)といった観点も重要です。そこで近年、サルコジ大統領や、オランド政権の経済相だったマクロンさんが主導して、日曜日の商店・飲食店の営業を大幅に拡大しました。現在ではパリ市内のデパートは、日曜日も開店しています。

風車と戦う(se battre contre des moulins à vent)

2022/02/08  -ブログ

こんにちは。バゲットです。 この原稿を書いている1月下旬現在、大学入学共通テストの東大会場で17歳の高校生が受験生と通行人の計3名を襲った事件が、世間の耳目を集めています。まだ断片的な情報しか報道されていませんが、東大医学部を目指していたところ、成績が伸びず、高校の面談で「無理」だと言われて自暴自棄になり、人を殺して自分も自殺しようと凶行に及んだとのことです。詳細が分からないのでコメントは避けますが、「なぜそんな些細なことで、絶望するのだろう」というのが、大方の大人の感想ではないでしょうか。「競争」なんて、こだわり出したら切りがありません。仮に運良く東大理三に合格したところで、成功に酔っていられるのはほんの数ヶ月のことでしょう。入学直後から既に、大学内部での競争が始まっています。2年もすれば、そうした内部競争の「勝者/敗者」も見えてくる。10年もすると、一旦「蹴落とした」と思っていた相手が自分よりも「上」にいたりする。そうした「競争」は、理系ならノーベル賞、文系なら総理大臣(すぐに辞めるヤツもいるがw)や経団連会長が「上がり」なのでしょうが、当然、そこまで行ける人は極端に少数で、限りなく100%に近い人間がどこかで「負ける」。「(絶対的な)勝利」「(絶対的な)成功」という概念そのものが「幻想」なのであって、小さな挫折で過度の敗北感を背負っている人は、いわば「幻想」と戦って苦しんでいるようなものでしょう。 ※     ※      ※ ということで、今回紹介したい表現は“se battre contre des moulins à vent/風車と戦う”。いつものようにネットで検索してみると、“Wiktionnaire”のページがヒットします(https://fr.wiktionary.org/wiki/se_battre_contre…)。それによると、この表現が意味しているのは、“(Figuré)combattre en vain une chimère/(比喩的)むなしく空想と戦う”。他のサイトも見ると“se battre contre des ennemis imaginaires, lutter contre des difficultés imaginaires/想像上の敵と戦う、想像上の困難と戦う”。要するに、ありもしない敵、あるいは問題や困難と戦って、無意味に絶望的な努力をしたり大いに苦悩したりすることです。もともとの「出展」は17世紀スペインの作家、セルバンテス(Cervantes)の『ドン・キホーテ(Don Quichotte de la Manche)』。主人公が風車を「腕を振り回している巨人」と誤認して突撃したことから取られ、18世紀に生まれた表現だそうですが、現代でもよく使われています。 ネットであちこち飛び回っても、簡潔で適切な例文が見つからないのですが、いろいろなケースで使えると思います。戦後の日本史でも、連合赤軍事件やオーム真理教事件などは、端的に「風車と戦った」事例です。現代でも、到底実眼不可能な極右/極左の政治思想を信奉したり、マルチ商法や霊感商法に欺されるのも同様。さらに日常的な場面でも、社会的な成功や出世、世間体に過度に執着するのも「風車と戦う」ようなものでしょう。 ※     ※      ※ ここまで書いてきて思い出したのが、私が若い頃、あるフランス政府系機関で働いていたときの経理の女性。個人的に誹謗する意図はないので、詳細は避けますが、この人が「人生は金と地位と権力がすべて!」という、いわば「俗物根性の権化」(失礼w)のような方だったのです。その彼女について、あるとき別の女性職員が「悩みの多い人だからw」と言うのを聞いて、「まあ、そうだろうなあ〜」と妙に納得したことがあります。言うまでも無く、誰でも何らかの「幻想」は持っていますから、全く「風車と戦っていない」という人もいないでしょう。私とて「成功」や「世間体」を全く気にしていないわけではありません。しかし、とり分け上記の彼女のように、変に偏った価値観に縛られていると、「風車と激闘を演じるwww」ことになるようです。

指を鼻の中に入れて(les doigts dans le nez)

2021/11/18  -ブログ

こんにちは。バゲットです。 以前もちょっと書いたかもしれませんが、私の高校時代の友人で、六年ほど遅れて四国の国立大学の医学部に入学し、現在は千葉で脳外科医をしている男がいます。彼は高二のときにキリスト教に入信し、「キリスト教の神父になりたい」と同志社大学の神学部を第一志望に受験するも、あえなく失敗。その後、どういうわけか志望を大きく変えて、三年後に日大の工学部建築学科に進学します。そして教会で知り合った医者の娘さんと、何と学生結婚!しばらくすると、今度は自分も医者になりたくなったようで、お義父さまにお金を出してもらい、医学部を目指して受験勉強を再開します。そして苦難の末、めでたく合格したのです。彼は現役時は「私立文系」で、理系の科目は全く出来ませんでした。「アタマが切れる」という印象はなく、学年順位は恐らく「中の下」ぐらい。それで国立の医学部によく合格したものだと、クラスの友人一同、皆、あっけにとられたものです(註・私たちの高校は三年生になっても文系/理系の区別がなく、「私立文系」が第一志望でも数Ⅲや物理Ⅱが必修でした)。まあ、それはそれでいいのですが、実はこの男、運動神経が抜群だったのです。クラブは「マンドリン部」に属して上品に音楽などをやっていたのですが、体育の授業で「床運動」や「鉄棒」をすると、どう見ても「体操部」所属にしか見えないほど、クルクルと飛び跳ね、飛び回る。前回も書いたように私自身は運動音痴だったので、「なぜコイツにはこんなことが、こんな簡単そうにできるのだろう」と、私はいつも羨望の念をもって見ていました。その彼が「脳外科医!」になったのです。ひょっとしたら、手術は「アクロバット的!!」に上手なのかもしれません。 ※      ※      ※ さて、フランス語に“les doigts dans le nez/指を鼻の中に入れて”という表現があります。いつものようにネットで調べてみると(https://fr.wiktionary.org/wiki/les_doigts_dans_le_nez)、それが意味するところは“très facilement/とても簡単に”、“sans aucune difficulté/何の困難もなしに”。同じサイトの例文を見ると「il résout les intégrales les doigts dans le nez/彼は“指を鼻の中に入れて”積分を解いてしまう」とか、「Qualifié les doigts dans le nez pour les huitièmes de finale du championnat du monde/“指を鼻の中に入れて” 世界選手権ベスト16に進出する」が挙げられています。別のサイトによれば、1912年に競馬界で生まれた表現だそうで、実話か否か確認できないのですが、「le jockey est arrivé premier les doigts dans le nez/そのジョッキーは“指を鼻の中に入れて”一位でゴールした」という文が紹介されていました。 その段で言えば、上記の友人は“指を鼻の中に入れて”バク転をしたり、大車輪をしたりしていたのです。 ※      ※      ※ 少し前のことですが、東大法学部を首席で卒業したというテレビのコメンテーターが、岸田総理がかつて東大受験に三回失敗していることを皮肉って、「よっぽど受験が好きなんだな」とか「ちょっと勉強すれば受かっちゃう」などと放言したことがありました。自分は「指を鼻の中に入れてw」東大文一に現役で合格した(=岸田さんよりずっと頭がいい)と言っているわけですが、さすがにこの発言に対して世間の反発は凄まじく、ネットでは炎上。「その得意のお勉強で、総理大臣になってみればいい」などと、意地の悪いコメントもありました。しかし、上記の友人の例からしても、私は大学入試における成績と「地頭=本当の知的能力」に、決定的な相関関係があるとは考えていません。もちろん、「素質」が関与していることは否定できませんが、テストでの得点力には「努力の総量と要領の良さ」も大いに関係するからです。私は博士課程の学生だったとき、ある予備校で英文解釈の教師をしていました。自分自身が予備校で教えてみると本当によくわかるのですが、受験勉強には明らかに「コツ(truc)」があります。まず、科目ごとに効率的に得点を伸ばす勉強方法がありますし、さらに科目の特性に合せて、比較的安定して高い総合点を取る方法もあります。具体的に言えば、文系なら英語と社会(←「努力」と「要領」がものを言い、得点に差がつきやすく、出来・不出来があまりない)で「勝負」です。それが分かっていないと、第一志望の大学に合格するのは難しいと思います。この記事を読んでくださっている方の中には、第一志望に合格できず、滑り止めの大学で勉強している方もいらっしゃることでしょう。でも、失敗したからといって、自信を失う必要はありません。本当の「勝負」はこれからだと思って、頑張ってください。

自分のお皿の中にいない(ne pas être dans son assiette)

2021/09/27  -ブログ

こんにちは。バゲットです。 私は収入の少ない「恵まれない階層(classe défavorisée)」の人間なので、つね日頃、可能な限り質素な生活を送るよう心がけています。語学研修費と書籍代を除いた私の生活レバルは、一人暮らしの大学生と同じ程度のものでしょう。そう言えば数年前、勤務先の大学のキャンパスで、ほとんどの学生が私より良いカバンを持ち、私より良い靴を履いていることに気づいて、思わず苦笑したことがありました(←実話w)。そんな「貧乏人」ですから、私は「特売」に目がありません。近所のスーパーで、私がよく食べる商品を(+あまり食べない商品もw)普段より安い値段で売っていると、私はついつい欲張って余分に買ってしまうのです。たとえば何年か前、三茶のドラッグストアで、「日清のどん兵衛/天ぷらそば」が一個85円で売られていたときのこと。私は狂喜し、ためらいもせずにまるごと一ケース(24個)を購入してしまいました。結局、五つくらい食べたら飽きてしまい、その後放置しておいて、賞味期限間近になって毎日「どん兵衛」ばかり食べるハメになりましたがw。「特売」でさえそんな有様ですから、「無料」については言を俟たないでしょう。実際、「只」という言葉を耳にするたび、私の判断力は瞬時に「パブロフのイヌw」並に低下し、私は「条件反射(réflexe conditionné)ww」で飛びついてしまうのです。7年前(2014年)、「はごろもフーズ」が「ちびまる子ちゃん」のお皿をプレゼントするキャンペーンを実施したことがありました。「はごろも」の缶詰を買ってシールを集めると、「ちびまる子ちゃん」の絵が入ったお皿が只(!)でもらえる。私は「ちびまる子」には何の思い入れも持っていませんでしたが、お皿を三枚ゲットするために、普段は全く食べない(!!)「シーチキン」の缶詰を、大量に購入したのでした。 ※       ※      ※ と言うことで、今日のテーマは「お皿」です。フランス語に“ne pas être dans son assiette/自分のお皿の中にいない”という表現があります。ネットで調べてみると(https://www.expressio.fr/expressions/ne-pas-etre-dans-son-assiette)、それが意味するところは“ne pas être dans son état normal/正常な状態にない”、“avoir le cafard/ひどく落ち込んでいる(←ゴキブリを持っている)”、“ne pas être très en forme/あまり好調でない”、あるいは“se sentir malade/気分が悪い”。念のために別のサイトも見ると、“être fatigué/疲れている”とあって、この“fatigue/疲れ”は、“physique/身体的”なものでも“psychologique/心理的”なものでもよい、と解説しています。要するに、身体的あるいは精神的に「調子が悪い、疲れている、参っている」ということ。ネイティヴ何人かに確認しましたが、あくまでも「一時的で軽い不調」について言い、「病気で寝込んでいる/入院している」ような重大なケースでは使わないそうです。ですから、軽い身体的不調があるとき、疲労感や倦怠感があるとき、あるいは何か問題があって悩んでいるとか落ち込んでいるとき、そんなときに“Je ne suis pas dans mon assiette/僕は自分のお皿の中にいないよ”と言うわけですね。 それにしても、なぜ「自分のお皿の中にいない」のでしょう。上のサイト(↑)に説明がありました。それによれば、“assiette/取り皿”という語は“asseoir/座らせる”に由来し、もともとは「座り方」、特に「馬上での騎士の姿勢」を意味しました。そこから、この語は身体や精神の「状態」の意味に転じ、「自分本来の姿勢ではない/ne pas être dans son assiette」が「(身体的・精神的に)調子が悪い」を意味するようになった、ということです。さらに、同じサイトに「補足」があります。なぜ「座り方」を意味する“assiette”が、「取り皿」(“plat/大皿”ではなく)の意味になったのか。その解説によれば、この言葉は「テーブルについた会食者の姿勢」の意味になって、そこから「各席に置かれたテーブルクロスとナプキン」、さらに意味が転じて「取り皿」になった、ということのようです。 ※       ※      ※ 上で書いた「ちびまる子」のお皿ですが、直径21センチと大きさも手頃で使い勝手が良いので、もらってすぐに使い始めました。で、使ってみて思ったのですが、その絵柄を見ていると何となく心が「和む」のです。「ほっこり」した気分になる。しかし、お皿自体はやはり「只」の粗悪品(と言っては、「はごろも」には申し訳ないですが)。一枚目のお皿は二年程度で真っ二つに割れてしまい、二枚目も同様で、今使っているのが最後の一枚です。このお皿が割れてしまったら、とうとう「ちびまる子」ともお別れです。そのときは私も大いに落胆して、“Je ne suis pas dans mon assiette/僕は自分のお皿の中にいないよ”と嘆くでしょう。

お風呂の中に入る(se mettre dans le bain)

2021/08/02  -ブログ

こんにちは。バゲットです。 私は千葉の山奥の農家に生まれましたが、子供のころ住んでいた家はかやぶき屋根のひどく古い家でした。玄関を入ると農作業用の広い土間があって、その奥に大きな食卓と台所、そこを右に行ったところにお風呂がありました。薪を燃やして沸かす五右衛門風呂です。子供のころの私は、お風呂が嫌いでした。多少の距離があって壁の陰になっているとは言え、台所の隣で間に仕切りもない。そこに8人の大家族が次から次へと入るのです。お風呂に入ってものんびりした気分には全くならず、「気持ちいい」と思ったこともほとんど無く、したがって夜になっても「お風呂に入りたい」とも思わず、私にとってお風呂は親に言われて入るだけのものでした。いつも風呂桶にちょっと体を沈めただけですぐに出てしまって、母親からは「烏の行水」などと言われていました。 ※       ※      ※ 皆さまもご存じのように、フランス人はあまりお風呂には入りません。独身者向けのワンルームマンションには、通常お風呂(baignoire/浴槽)はなくて、シャワーだけ。一戸建ての家や家族用のアパルトマンは多く浴槽を備えていますが、実際に使うことはあまりなく(頻度は人によって大きく異なるようで、一般に男性より女性の方がよく使うそうです・註)、普段はシャワーで済ませます。私が住んでいたボルドーの下宿も、カーンの学生寮も、共用のシャワーしか備えていませんでした。それでも私は、そのことについて特に不便には感じませんでした。そもそも空気が乾燥していて、日本のように身体がベタベタした感じにならないので、夕方になっても「お風呂に入りたい」という気分にならないのです。 さて、フランス語で「お風呂に入る」は“prendre un bain”。“prendre mon bain”のように、所有代名詞を使うこともできます。代名動詞で“se baigner”という表現もありますが、こちらは普通「(海/川/プールで)水浴びをする、水遊びをする」という意味ですので、気をつけてください。「シャワーを浴びる」が、“prendre une douche”とも“se doucher”とも言えることを考えると、奇妙と言えば奇妙かもしれません。文字通り「お風呂の中に入る/se mettre dans le bain」という言い回しもあります。ネットで検索してみると(https://lemondedufrancais.com/2011/12/05/lexpression-du-jour-se-remettre-dans-le-bain/#:~:text=Se%20mettre%20dans%20le%20bain,%27interruption%20ou%20d%27inactivit%C3%A9.)、意味するところは“s’acclimater à un nouvel environnement/新しい環境に慣れる”。別のサイトでは“s’adapter à quelque chose de nouveau, réussir à prendre l’habitude de faire quelque chose/何か新しいことに順応する、何かをする習慣をつけることに成功する”。たとえば、新たに移動(もしくは転職)してきた同僚が職場に打ち解けた、新しい仕事に慣れたと言いたいなら、“Mon nouveau collègue s’est mis dans le bain/新しい同僚はお風呂の中に入ったよ”。あるいは事務所に新しいソフトウエアが導入されて、早急に使い方を身につけなければならないたときは、“Je dois vite me mettre dans le bain/ボクは急いでお風呂の中に入らなければならない”と言えばよい。いろいろなケースで使えそうなので、覚えておかれるとよろしいかと思います。 ※       ※       ※ 私が中学三年生のとき、隣にあったクリ畑を潰して新しい家を建てたのですが、お風呂だけは古い家の五右衛門風呂を使い続けました。風呂好きだった曾祖父が自分で沸かして、自分で入り、他の家族もそれに続いていたのです。家の周囲に枯れ木はいくらでもありましたから、枯れ木を使ってお風呂を沸かせば灯油(←新居のお風呂は灯油で沸かす方式でした)も節約できて、合理的だったのでしょう。こうしてほぼ7年間、私の家族たちは新居に住みながら、夜になると庭を歩いてお風呂に入りに行きました。古い家はもう取り壊してあり、屋根があって周囲をトタンで囲っただけのお風呂です。私の家は集落から離れた奥まったところにあって、山に囲まれ、隣の家からも100メートルほど離れていましたから、他人の目を気にする必要もありません。家族は母屋にいて、たった一人でお風呂に入るので、リラックスした気分にもなります。晴れた日には、トタンと天井の隙間から星々を見ることができて、風呂桶の中ではときどきアマガエルが泳いでいます。私はいつの間にかお風呂が好きになっていました。・・・自然に囲まれて、ひとりお風呂に入る。今になってみると、すごく贅沢な経験だったように思います。 註・そう言えば、お風呂に入る習慣をフランスに持ち込んだのは、マリー・アントワネット(Marie-Antoinette)だと言われています。

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