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彼女は「帽子」をかぶってる(Elle porte un chapeau/une casquette)

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こんにちは。バゲットです。

すごく幼いころ、まだ保育園にも通っていない4歳か5歳のときでしたが、些細でありながら、今でも鮮明に覚えている、ある経験をしました。
曇った日の午後、私は一人で家にいました。私は水を飲もうと、水道の蛇口をひねりました。そして透明のコップに流れ込んでいく水を見ながら、ふと思ったのです、「なんでこれを『みず』って言うのだろう」と。
さらに思いました、「これを『みず』と呼んでいるのは、このあたりの人たちだけなんじゃないだろうか」、「東京の人たちは全く違う言い方をしていて、私が『みず』と言っても、彼らには何のことだか分からないんじゃないだろうか」。
そう考えたら、なんだかすごく不安な気持ちになって、誰か家族が家の近くにいないかと、私は庭に出ました。しかし、庭の横を登ったところにある畑にも、庭の向かいの山の下の畑にも、誰もいません。私の家は農村地帯の集落から少し離れた、奥まったところにあって、隣の家まで100メートル、その隣の家までは200メートルもあります。
私の近くには誰もいません。そのときの混乱と不安と孤独感。まさに「世界」が「崩壊」して、たった一人で放り出されたような気がしました。
その後、大学に入って言語学を勉強し、上記の私の体験が、スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure)の言う「記号の恣意性(しいせい/arbitraire du signe)」に関するものだと知りました。
ここで「恣意性」とは「必然性=根拠がない」ということで、つまり、水道の蛇口をひねると出てくるあの透明な液体を、「水」と呼ばなければならない必然性=根拠はないのです。あの液体は、英語で言うように “water” と呼んでもいいし、フランス語で言うように “eau” と呼んでもいい。あるいは「みず」ではなく、「まず」でも「むず」でも、「みじ」でも「みぜ」でもよかった。それを私たちはたまたま「みず」と呼んでいる、ということです。
※      ※      ※
さて、実は、ソシュールの言う「記号の恣意性」には二種類あります。つまり上記とは別の「恣意性」もあって、換言すれば、単語=言語記号はもう一つの「必然性=根拠がないこと」を持っているのです。外国語の学習者にとっては、こちらの方がずっとやっかいなのですが、それは、単語の意味する範囲には根拠がない、ということです。
たとえば、一般に膝下から腿ぐらいの高さで上面が平らになっていて、地面や床に置いて人間がその上に座るための道具を、日本語では「イス」と呼んでいます。しかしそうした道具を一括して、同一の単語で意味しなければならない必然性=根拠はないのです。実際フランス語では、上の定義を満たす道具は、“chaise(椅子)”、“fauteuil(肘掛け椅子)”、“tabouret(スツール)”、“divan(背・腕のない長椅子)”、“canapé(ソファ)“など、たくさんあって、それぞれの単語が全く別のものを指しています。
あるいは「帽子」。「彼女は“chapeau”をかぶってる」なら、こう(↓)です。
彼女は“chapeau”をかぶってる
でも「彼女は“casquette”をかぶってる」なら、こう(↓)。全く違いますね。
彼女は“casquette”をかぶってる
このように、日本語の単語が指している範囲と、それと対応しそうなフランス語の単語が指す範囲が全く違うことって、本当に、山のようにあるんですよね。
まあ、それがフランス語(あるいは他の言語)を勉強することの、「面白さ」でもあるわけですが。

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こんにちは。バゲットです。 皆さま、お盆休みはどのように過ごされたのでしょうか。私は例年通り、千葉の実家に帰ってお墓参りをし、母や弟とおしゃべりをしたり家の近所を散歩したりして、数日ですがのんびりと過ごしました。 散歩の一環で、幼いころに通った小学校に数十年ぶりに行ってみると、校庭の隅に日清、日露、アジア・太平洋戦争の「戦没者の碑」が建っていました。「村」から出征して戦死した人たちの氏名と享年が刻まれた石碑です。140名ほどの名前があって、多くは20代前半。18歳、19歳で亡くなった人もいて、女性もいます。その数の多さと若さとに、哀れみと悲しさとやり切れなさが混じった、何とも言えない気分になりました。 さて、言うまでもなく、日本では8月15日がアジア・太平洋戦争の終戦記念日です。この日は、昭和天皇が玉音放送で国民に終戦を告知した日ですから、日本との間に大きな戦闘のなかったヨーロッパ諸国では終戦の日にはなりません。フランスでの「第二次大戦戦勝記念日(Victoire du 5 mai 1945)」は、ナチス・ドイツが降伏した5月8日で、「国民の祝日(fête nationale)」の一つです。 ところが意外なことに、フランスでは8月15日もまた「祝日」です。この日はフランスを始めとするカトリック諸国では、「聖母被昇天(せいぼひしょうてん/l’Assomption de Marie)」の日なのでした。 聖母被昇天 以前にも書きましたが、フランスは古くから「ヴァチカンの長女(la fille aînée de l’Église)」と言われ、世俗化された現代でも国民の60%以上がカトリック教徒です。そのため年間11日ある「国民の祝日」のうち、6日がキリスト教関係の日になっています。その一つ「聖母被昇天祭」は、その名のとおり、聖母マリアが天に召された日。 聖母マリアの像を掲げた宗教行列 その日、フランスのみならずベルギー、スペイン、イタリア等の各都市では、聖母マリアの像を掲げた宗教行列が行われます。上の写真でも左にマリアの像が写っていますね。行列が終わった後は、花火を上げる等のお祭りがあるそうです。 パリでは、前日14日の夜、セーヌ川にいくつもの船を浮かべて行列を行います。参加者(pèlerins=巡礼者)たちは手にロウソクを持って、祈りの言葉を唱えます。      ※      ※ この件について調べていて偶然に知ったのですが、カトリックではマリアは「原罪」を免れているそうで、しかもそれはイエスを身ごもったときに免れたのではなく、母アンナの胎内に宿ったときからそうだったということです。それが12月8日の出来事。なんと、真珠湾攻撃の日じゃないですか! つまり、日米の太平洋戦争はマリアの「無原罪の御宿り(むげんざいのおんやどり/Immaculée conception)」の日に始まり、「聖母被昇天」の日に終わったのです!! 日本側は国家神道を掲げて戦ったわけですから、そうなると、これはもう「神々の戦い」と言ってもよい。で、現人神であるヒロヒトが聖母マリアに負けたわけ。何となく、もともと格が違いすぎて、勝ち目がなさそうな気もしますがw。 てか、聖母崇敬はカトリックの教義だから、プロテスタントが主流のアメリカとは関係ないかも知れないけどww。

私のウサギちゃん

私のかわいいウサギさん(mon petit lapin)

大学1年の冬だったように記憶しているのですが、アーネスト・ヘミングウェイ(註)の『誰がために鐘は鳴る』を読みました。スペイン内戦(1936~1939)を舞台に、義勇兵として参戦したアメリカ人の青年ロバート・ジョーダンと、両親をファシストに殺されたスペイン人少女マリアとの悲しい恋を描いた、恋愛小説の名作です。宝塚歌劇団でミュージカルになっているので、そちらでご存知の方も多いと思います。 さて、その小説の中で、主人公はマリアのことを「ウサギさん」と呼んでいます。 あまりに照れくさくて、読んでいて恥ずかしくなったものでしたが、その後、フランス語では実際にそういう言い方をすることを知って、驚きました。 Mon lapin(私のウサギちゃん)と。 恋人同士、夫婦間あるいは子供に対する、愛情を込めた「呼びかけ」だそうです。 そこにpetit(かわいい)という形容詞を入れて、mon petit lapin(私のかわいいウサギちゃん)のように言うこともできますね。 同様の言い方は他にもあって、mon chat(私のネコちゃん)と言うこともあります。 「相手が女性の場合、女性形にするのかな?」と思って、レコール・ド・フランセでパスカルに尋ねてみましたが Ma lapine(私のウサギちゃん)は「ダメ」(lapine は「子だくさん」というニュアンスがあるようです)、Ma chatte(私のネコちゃん)は、「自分は聞いたことはないが、あり得るのではないか」とのことでした。 辞書で調べてみると、mon rat(私のネズミちゃん)もありましたが、パスカルは「聞いたことがない」と言っていました。 動物以外では、mon bijou(私の宝石さん)、あるいは変わったところでは、mon chou(私のキャベツちゃん)もあります。 というか、そもそも若い恋人同士が密室に中で言うのなら、「何でもあり」っていう気もしますけどね。 ※       ※      ※ ヘミングウェイの小説の舞台はスペイン内戦ですが、スペイン語でも普通に言うのかもしれません。 (註)アーネスト・ヘミングウェイ(1899年~1961年)。『日はまた昇る』、『武器よさらば』、『誰がために鐘は鳴る』、『老人と海』などが有名。1954年、ノーベル文学賞受賞。

サンタクロース

サンタクロースって、誰?(Qui est le père Noël ?)

こんにちは。バゲットです。 ここでも何度か書いたように、私は房総半島の山奥の農家の出身で、子供のころ、実家ではクリスマスを祝う習慣はありませんでした。年によってはクリスマスケーキを食べましたが、ツリーを飾ったことや、プレゼントをもらったことは一度もありません。 それでもサンタクロースのことは、かなり幼い頃から知っていたように思います。『オバケのQ太郎』等、マンガで読んだのか、あるいは小学館の『小学〇年生』(学年別の総合雑誌)で読んだのでしょう。当然、私自身はサンタクロースの存在を信じてはいませんでした。しかしネットで、「現代の日本では70%以上の家庭で、子供はサンタクロースの存在を信じている/信じていた」などという記事(↓)を読むと、微かな羨望が混じった不思議な気分に襲われます。http://www.o-uccino.jp/article/archive/trend/20161117-souken/ と言うことで、クリスマスも近いので、今回はサンタクロースについて調べてみました。 ※      ※      ※ 一般にサンタクロースの「起源」とされるのは聖ニコラウス(=ミラのニコラウス)。4世紀頃のトルコ南部のキリスト教の主教で、貧しい人々に施しをしたとか、無実の死刑囚を救ったとか、いろいろな伝説があるようです。フランス語ではサン・ニコラ(Saint Nicolas)と言いますね。それがオランダ語で「シンタクラ-ス」になって、その命日(12月6日)を祝う習慣があったのですが、18世紀半ば頃からオランダ系の移民を介して、アメリカで「サンタクロース」として広まったそうです。 もっとも、私たちが知っているようなサンタクロースのイメージは、聖ニコラウスに還元できるものではありません。ウィキペディア・フランス語ヴァージョンによれば、それは「諸教混合的な構築物(construction syncrétiste)」で、「さまざまな伝統、お話(contes)、伝説、民間伝承の混合の産物」だそうです。つまり、聖ニコラウスの伝説が基礎となって、それにさまざまな伝承が接合して出来たものなのです。 赤と白の服で白髭をたくわえたイメージは20世紀半ばのコカコーラのキャンペーンに由来するとよく言われますが、それは「都市伝説(légende urbaine)」にすぎず、そうしたイメージは19世紀の後半にはすでに広まっていたようです。  ※      ※      ※ さて、サンタクロース伝説は、聖書に由来するキリスト教本家本流の伝説ではなく、キリスト教の一聖人を起源とする「外伝」、あるいは「スピン・オフ伝説」です。フランスを始めヨーロッパでは、サンタクロースの他にも、同様にキリスト教から派生した伝説が数多く存在します。聖杯伝説もそうですし、ジャンヌ・ダルクの物語も、史実に基づくとはいえ、多分に脚色された「伝説」のようなものでしょう。 現代においても、キリスト教の関連事項を題材にした小説や映画はたくさん作られています。世界的ベストセラーになった、ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』もその一つです。日本でも、遠藤周作の『沈黙』(キリスト教文学の傑作とされます)から、永井豪の『デビルマン』や石ノ森章太郎の『サイボーグ009』(それぞれ魔王サタンと天使が登場します)まで、キリスト教の影響を受けた作品は枚挙にいとまがありません。 そのように考えると、キリスト教が、単なる一宗教を越えた巨大な文化現象であることを、改めて感じますね。

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