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イチゴを持ち帰る(ramener sa fraise)

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こんにちは。バゲットです。

前回も書いたように、私が子供のころ、私の家では周囲の畑でいろいろな野菜・果物を栽培していました。野菜は多くが自家消費用で、余った分は近所の家にお裾分けしていました。その代わり、近所からはその家で作っている野菜や鶏卵、あるいはもらい物(親戚が送ってきたリンゴとか)の余りなどをもらっていましたから、今考えてみれば一種の「物物交換」です。
他方で、果物については事情は少し違います。五~六アールの果樹園(+家の前と後ろの山の斜面)に柿、栗、梅の木がたくさんあって、それらの収穫物は市場で売ってそれなりのお金になっていたようです。また畑でも、いくつかの果物を販売用に栽培していました。私がよく覚えているのは、トウモロコシ(「果物」ではありませんが)とイチゴ。前者は立ったまま収穫できますから、祖父母も手伝っていましたが、イチゴはしゃがんで選別しながら摘むので、かなりの重労働です。そのため、当時はまだ20代だった母親の仕事になっていて、私も母親についてよくイチゴ摘みを手伝ったものでした。もっとも、たいていはテントウムシ(bête à bon Dieu/神さまの虫)などを捕まえて遊んでいたので、ほとんど役には立ちませんでしたが。
⦁ ※      ※      ※
さて、フランス語で「イチゴ/fraise」を用いた表現としてまず思いつくのは、“ramener sa fraise/自分のイチゴを持ち帰る”。
いつものように「ウィクショネール」(https://fr.wiktionary.org/wiki/ramener_sa_fraise)で調べてみると、三つの語義が挙げられています。まず“survenir à l’improviste/不意にやって来る”。次に“venir ; s’approcher/来る、近づく”。どちらの語義も例文を読むと、あまり良い意味ではないようで、「じゃまな人、来て欲しくない人が来る」というニュアンスです。
しかし、この原稿を書くにあたって実際に三人のフランス人に尋ねてみたところ、三人がともにこの表現の意味として挙げたのは第三の語義、“intervenir dans une discussion sans y être invité/招かれもしないのに(他人の)会話に口を出す”です。
別のサイト(http://www.linternaute.fr/expression/langue-francaise/637/ramener-sa-fraise/)でも、「ある人物について、“彼/彼女は自分のイチゴを持ち帰る”と言うは、会話の内容がその人とは関係ないにもかかわらず、あるいは意見を聞かれていないにもかかわらず、その人がしばしば会話に口を出すときである」とある。ここで「イチゴ」とは「顔」のことだそうで、意味は少し違いますが日本語で言う「首を突っ込む」と、発想は似ているかもしれません。

« Ramener sa fraise »

具体的な使い方としては、たとえば、すごくおしゃべりで、いつも他人の会話に割り込んでくる人、皆で話しているときに他人の話を聞かず、会話を独占しようとする人、聞かれてもいないのに、自分の知識をひけらかしてベラベラしゃべる人などについて、“Il ramène toujours sa fraise/彼はいつも自分のイチゴを持ってくるね”のように言うようです。あるいは、プライベートなことを話しているときに第三者が興味を示してきたら、“Ne ramène pas ta fraise/イチゴを持ってこないでよ=キミには関係ないことだよ”と言うこともできますね。
⦁※      ※      ※
私の家では母が腰を痛めてしまったこともあって、イチゴを栽培していたのはほんの数年間でした。しかし、母の実家ではかなり長い間作っていて、母は実家に行くとしばしばイチゴを持ち帰っていました。本物のイチゴです。
他方で私の祖母はむやみにおしゃべりで、私の友人たち(←小学生のとき)が家に遊びに来ると必ず話しかけ、どうでもいい質問を、推測を交えながら矢継ぎ早に投げかけるのです。そのため友人の一人は辟易してしまい、「お前の婆さん、ホントにうっとうしいな」などと言っていました。祖母はイチゴの生産には全く携わっていませんでしたが、それでもやはり、彼女は彼女なりの仕方でw、「いつもイチゴを持ち帰っていた/Elle ramenait toujours sa fraise」と言うことができるかもしれませんww。

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地位が不安定だ

枝の上の鳥のように(comme un oiseau sur la branche)

こんにちは。バゲットです。 私が若いころにはどこの大学でも第二外国語が必修で、大部分の学生はフランス語かドイツ語を選択していました。そのためフランス語の教師も仕事はたくさんありました。事情が変わったのは2000年代半ばのこと。文部科学省が方針を転換し、大学で第二外国語を「必修」にする必要がなくなったのです。まずは入学偏差値下位の大学から第二外国語を「選択科目」とする大学が増え始め、ついで偏差値中位、さらには上位の大学・学部へと伝播します。そこに中国語の伸長と、2010年以降はスペイン語の人気も高まって、大学のフランス語の受講生は激減。私の勤務先の一つでは、2,000人以上いた履修者が400人台まで減りました。その煽りを食ったのが教師たち。クラス数が減少し、専任の教員が定年退職しても、後任を採用しなくなる。小規模な大学・短大では、フランス語の授業が全面的に廃止されて、専任教員なのに解雇される事態まで生じます。非常勤講師には雇い止めや授業減が続出し、私自身も担当コマ数は一番多かったときの6割程度まで減っています。私の知人では大学教師では食べて行けなくなって、40代半ばで転職した人もいます。安い時給でアルバイトに明け暮れている人も、多分たくさんいるでしょう。今では大学のフランス語非常勤講師は、日本で最も不安定な職業の一つ(←とまで言ったら大げさかもしれませんがw)になってしまいました。⦁ ※     ※      ※さて、フランス語に“être comme un/l’oiseau sur la branche”という表現があります。直訳すれば「枝の上の鳥のようである」。手元の仏和辞典を引いてみると、「地位が不安定だ、将来が心もとない」、Le Petit Robertでは“occuper une position précaire/不安定な地位にある”。換言すれば「いつクビになってもおかしくない」、まさに大学のフランス語講師の状況です(←自虐的な笑いw)。 枝の上の鳥のようである ところが、別の仏和辞典によると、この表現にはもう一つ意味があって、「一ヶ所に長くとどまらない」。ネットで検索してみると(http://www.linternaute.fr/expression/langue-francaise/15716/comme-l-oiseau-sur-la-branche/#:~:text=Comme%20l%27oiseau%20sur%20la,et%20origine%20de%20l%27expression)“se dit d’un individu qui n’a pas d’opinion fixe et assurée, ou qui n’est pas sûr du chemin à prendre/しっかりした定まった意見を持っていない人、あるいは取るべき道について確信がない人について言われる”とあります。考えがフラフラ変わる人、職業を転々とする人、志望がコロコロ変わる人について言うのでしょう。してみると、この表現、大学のフランス語講師が自虐的に、“Je suis comme l’oiseau sur la branche/オレは枝の上の鳥みたいなもんだよ”のようにも使えるし、優柔不断な友人や頻繁に転職する知人について、“Il est comme l’oiseau sur la branche/アイツは枝の上の鳥みたいなヤツだ”のように使うこともできますね(註)。⦁ ※       ※      ※私は一昨年の春に住宅ローンの返済が終了し、非常勤講師という不安定な立場にいても、それをことさら心配する必要はなくなりました。しかし、興味の対象がコロコロ変わるという意味では、私の「枝の上の鳥」は死ぬまで治りそうにありません。実際、私は高校時代から現在に至るまで、志望・関心事が大きく変化し続けています。研究者としてテーマが変遷するだけならまだしも、フルタイムで事務仕事をしたり、法律系の資格を三つ取ったり、英語のTOEICでperfect scoreを目指したりと、今、振り返ってみると「常軌を逸しているw」ようにも思えます。そうではなく、腰を落ち着けて一つのテーマで研究を続けていれば、私にももっと大きな仕事ができたかもしれません。とは言え、世間では「初老」と言われる年齢になって、今更、生き方を変えることもできません。他人の目には、地に足がつかず、フラフラした人生を生きたように映るでしょうが、自分としては「これがオレの生き方なんだ」と、全面的に「肯定」したい気分です。 (註)この表現はどの辞書にも載っていますが、実際はめったに使わないようです。複数のネイティヴに確認してみたところ、ほとんどの人がこの表現を知りませんでした。

死んだネズミのように(comme un rat mort)

こんにちは。バゲットです。 この原稿を書いている5月の末、東京でも「緊急事態(état d’urgence)宣言」が解除されて、街も徐々に人出を取り戻し、経済も少しずつ回り始めているようです。 私は大学での授業がすべてオンラインによる遠隔授業になって、膨大な資料の作成に追われていました(一回分を作るのに3~5時間かかるw)が、ようやく「出口」が見えてきて、少しホッとした気分です。 緊急事態中は、特に営業を続けるパチンコ屋とその客に猛烈なバッシングが浴びせられていました。新聞はパチンコ客の声として、「家にいてもすることがない」という意見を紹介しています。家にとどまっていても、退屈で退屈で、死んでしまいそうなのでしょう。彼らもこれからは堂々と退屈しのぎ(?)ができると、大いに安心しているのでしょうか。 ※       ※      ※ さて、フランス語には、「死んだネズミのように退屈する(s’ennuyer comme un rat mort)」という表現があります。 死んだネズミのように 「オレは死んだネズミみたいに退屈だ(Je m’ennuie comme un rat mort)」とか、「一昨日マリーに会ったけど、死んだネズミみたいに退屈してたよ(Elle s’ennuyait comme un rat mort)」のように使うのでしょう。 なぜ「死んだネズミ」なのか?この(→https://www.expressio.fr/expressions/s-ennuyer-comme-un-rat-mort)サイトには、「屋根裏で忘れられた死んだネズミは、孤独の、見捨てられた状態の象徴だ(le rat mort oublié dans le grenier est le symbole de l’abandon, du délaissement)」とあります。「皆が私たちを忘れてしまったとき(quand tout le monde nous a oublié ← oubliés が正しい)」、「もはや電話が鳴らないとき(que le téléphone ne sonne plus/que はquand の代用)」、「もはや誰も私たちを何にであれ参加するよう誘ってくれないとき(que personne ne nous invite plus à participer à quoi que ce soit)」、「なんて退屈なんだろう(qu’est-ce qu’on s’emmerde !)」。 「死んだネズミ」なんて誰の興味も引かないし、誰も気にかけない。誰からも相手にされず、いつも独りぼっちで、することがなくて、退屈で退屈でしようがない・・・ということなのでしょう。なんか、ちょっと悲しい「退屈さ」ですね。 ※      ※      ※ そんな「死んだネズミ」ですが、確かに屋根裏や納屋の片隅で死んでいれば、誰の迷惑にもならないし、誰の興味も引きません。でも、もしも家の畳の上(!)に、血だらけのネズミの下半身(!!)があったりしたら、猛烈にショッキングな話です。 私が小学生のとき、母が嫁いで来たときからいたという老ネコが姿を消しました。「ネコは死期を悟ると身を隠す」(←体調が悪くなると外敵に襲われないように隠れるらしい)と言いますから、どこかで人知れず死んでしまったのでしょう。で、その直後、たまたま弟の友達の家で子ネコが生まれ、弟がもらってきて、私の家に新ネコがやってきました。白い部分の多い、可愛い三毛ネコでした。 しばらくすると、私はその子ネコがむやみに「じゃれる」ことに気づきました。私が子ネコの顔の前で人差し指を回すと、飛びついてくるのです。面白いと思ってよく遊んでいたのですが、少し身体が大きくなると、その子ネコはネズミを捕るようになりました。しかも、チビネコのくせに、ひどく大きなネズミを捕る。 これはネコの習性らしいのですが、家のチビネコは捕まえた大ネズミを、必ず畳の上に持ってきてから、食べるのです。で、食べきれずに、残す(!!!)。夏休みのある日だったように記憶していますが、家の座敷の畳の上に血だらけのネズミの下半身を見つけたとき、私はほとんど卒倒しそうになりましたwww。 そんな汚らしい、グロテスクな思い出なのに、今になってみると「懐かしい」と思えるから、不思議です。

馬車馬のように働く(travailler comme une bête de somme)

こんにちは。バゲットです。 新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、勤務先の大学は三つとも春学期の開講を2~4週間繰り下げました。そのため学期の終了も繰り下がり、私の最終授業は8月14日の金曜日。世間では「お盆休み」の真っ最中まで働いて、ようやく夏休みに入ったところです。授業はすべてインターネットを介した「オンライン授業」でした。各大学サイト上の「授業支援システム」に「教材」を提示し、Teams(マイクロソフト)やZoomといった「リアルタイム双方向メディア」も併用して行ったのですが、提示する「教材」の作成には膨大な時間がかかる。Teams/Zoomには参加できない学生もいるという前提で、授業で話す内容をすべて文書化し、それに音声ファイルも添付すると、一コマ(90分~100分)分の資料に、場合によっては5時間以上も費やします。さらに学生が提出した「課題」を見るのも大変で、一クラス25人分をチェックするのに一時間半~二時間超。その間、連絡の電子メールが山のように来て、目を通すだけでも一仕事・・・。春学期の私の担当は週4日で10コマだったのですが、週5日×10時間ぐらい働いて、おかげで自分自身の研究はほとんど進みませんでした(涙)。 ※      ※     ※さて、フランス語に、“travailler comme une bête de somme”という表現があります。“somme”は通常「合計/総和」、あるいは数学で言う「和」のことですから、“bête de somme”と言うと「足し算ができる馬」を連想する方もいらっしゃるかもしれませんが、そうではありません。いつものようにネットで調べてみると(https://www.expressio.fr/expressions/une-bete-de-somme)、ここで“somme”は“la charge que peut porter un cheval ou un mulet/ウマやラバが背負うことのできる積み荷”。ですから、“bête de somme”は「荷役用の動物」で、“travailler comme une bête de somme”は直訳すれば「荷役用の動物のように働く」、つまり「仕事で多忙を極める/くたくたになるまで働く」という意味です。日本語でも「馬車馬のように働く」と言いますが、発想は同じでしょう。上のサイトには、補足として“que ce soit volontairement ou sous la contrainte/意図的にであれ強制されてであれ”ともありました。だから、自分の意志でバリバリ働く場合でも使えるし、繁忙期だから毎日残業する場合でもいいし、ブラック企業で酷使されるケースでもいい。例を挙げれば、“J’ai travaillé comme une bête de somme hier/オレは昨日馬車馬のように働いたよ”。 馬車馬のように働く 同じような意味で、“travailler comme un fou/un dingue/un forçat”という言い回しもあります。それぞれ「バカ/頭のいかれたヤツ/徒刑囚のように働く」。これも具体的には、“Il travaille comme un fou ces temps-ci/アイツは最近バカみたいに働いているよ”のように言いますね。「荷役用の動物」にしても「バカ/その他」にしても、どう見ても「高い価値」を含意する単語ではありません。「仕事で多忙を極める」ことについてそうした語を用いることは、仕事よりもプライヴェートやヴァカンスを重視する、普通のフランス人のものの考え方・メンタリティーを反映しているのでしょうか。 ※      ※      ※何度も書いたように、私の実家は千葉の山奥の兼業農家で、父はJAの金融部門に勤務していました。現役時代は本当に「馬車馬のように」働いていましたが、定年退職後はずっと、母と一緒に農業にいそしんでいました。と言っても、採算は完全に度外視w。大した売り上げもないのに、何百万円もかけてトラクターを買ったりしている。本人の感覚では「ビジネス」ではなく「趣味」だったのでしょう。「農業」というより「大規模な家庭菜園」と言った方がいい。私の叔父(母の弟)も、都市銀行を定年退職後、八王子近郊に大きめの畑を借りて、晩年は農業をして過ごしていました。生産物は売ってはおらず、家で食べきれない分は近所に配っていたようです。金融業界という、いわば「資本主義の中心部」で人生の大半を過ごした父と叔父が、老後は趣味で農業をしていたこと、「資本主義の外部」とは言わずともその「周縁」で晩年を送ったということは、何か示唆的に思えてなりません。貧乏学者で一生を「資本主義の辺境w」で生きてきた私も、「老後」という言葉が無視できない年齢になってきました。最近は、「退職後は実家に帰って、『晴耕雨読』をするのもいいかなぁ・・・」などと考えている次第です。

学校のパーティー

11月25日レコールドフランセの学校で「アット・ホームパーティー」(11/21のupdate!)

レコール・ド・フランセの学校でアット・ホームパーティーを開催します 11月25日(土)19時~ 生徒の皆様へ、 来週の11月25日土曜日19時から、学校でアットホームなパーティを開きます。 参加費用は1人1,000円、その他、各自でお好きな食べものをお持ちください。 飲み物は学校で用意しますので、お持ちにならないでください。 参加希望の方は、以下の内容を記入して次のアドレスにメールを送信してください。 lecoledefrancais@gmail.com 現在21名予約が入っています。 しゅうまい、餃子、ケーキ、Cake Salé、サラミ、ラタトゥイユ、餃子、たこ焼き、スナック類(チップス等)、カマンベールチーズは持ってくる人がいます。それ以外でお願いします。   ……………………………… お名前 : ご持参いただけるお料理 : (飲み物以外で) お酒を飲みますか?(ワイン,ビール):  ……………………………… お飲み物は学校でご用意します。何かご希望のお飲み物があればお知らせください。 ご協力ありがとうございます。 では、次の25日土曜日、学校でお待ちしております! レコール・ド・フランセ 東京都新宿区高田馬場 4-2-29 ヴィラデステ 102号 03-3363-6603

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