サイトロゴ

レコールドフランセ フランス語学校 へようこそ!

03-3363-6603

関連記事

頭の内側に髪の毛が生える

頭の内側に髪の毛が生える(avoir les cheveux qui poussent à l’intérieur)

こんにちは。謎のキャラクター、バゲットです。 年末・年始は「忘年会」、「新年会」とお酒を飲む機会が多く、飲み過ぎて悪酔いして嘔吐したり、あるいは翌朝に二日酔いで苦しむ方も多いでしょう。 私も大学に入ったばかりのころはまだお酒の飲み方を知らず、6月の中頃までにクラスや友人たちとのコンパで三回も泥酔して前後不覚になり、内二回は吐いてしまいました。二浪して入学したクラスメートから、「酒の飲み方に少し気をつけろ」と叱られたことを今でも覚えています。 その後、一時は禁酒したこともあるのですが、20代の終わりごろからは毎晩、寝る前にお酒を飲むようになりました。ここ10年ほどは少し血糖値が高いので、もっぱら糖分ゼロのバーボン・ウイスキー。毎日8時半には仕事を切り上げ、フロアスタンドの間接照明以外は全ての明かりを消して、マンションの大きな窓から見る東京の夜景(←すごくキレイです)を背景に、一人でお酒を飲む。私にとって至福のひとときです。 Avoir les cheveux qui poussent a l’interieur フランス語で「二日酔い」を意味する最も一般的な表現は、“la gueule de bois”。直訳すれば「木の口」で、多くは動詞“avoir”とともに用います。「私は二日酔いだ」は、“J’ai la gueule de bois(=私は木の口を持っている)”ですね。 いつものようにウィクショネール(https://fr.wiktionary.org/wiki/gueule_de_bois)で調べてみると、“Malaises matinaux dus à un abus d’alcool(=酒の飲み過ぎに起因する朝の身体的不調)”。まさに「二日酔い」です。語源としては、“avoir la bouche sèche comme du bois après avoir bu trop d’alcool(=お酒を飲み過ぎた後に木のように乾いた口を持つ)”とありますね。 面白いのは「同義語(synonymes)」の項目。たとえば、“avoir la tête dans le cul(=頭が尻にある)”。「今朝、オレの頭は尻についてるよ(Ce matin, j’ai la tête dans le cul)」のように用いるのでしょう。 さらに奇抜なのは、“avoir les cheveux qui poussent à l’intérieur(=[頭の]内側に髪の毛が生えている)”。二日酔いでアタマがガンガンするときは、「昨夜は飲み過ぎた、髪の毛が頭の内側に生えてるみたいだ(J’ai trop bu hier-soir, j’ai les cheveux qui poussent à l’intérieur)」と言えばよいわけです。 ※      ※      ※ 私は体質的にお酒には強いようで、生涯で一度も二日酔いになったことがありません。夜中の2時、3時に目が覚めて激しい頭痛がしたことは何回かありますが、朝起きて頭が痛かったことは一度も無いのです。とは言え、飲み過ぎると風邪を引きやすくなりますし、また年齢のせいか、風邪を引いたときにお酒を飲むと、その風邪が何週間も治りません(←若いころは治ったのですが)。そのため、2年ほど前から、毎晩飲むお酒の量を少し減らすようにしています。 皆さまも飲み過ぎて二日酔いになったり風邪を引いたりしないよう、お気をつけてくださいませ。

桃

桃と魚釣りとどっちが好き?(Qu’est-ce que tu préfères, la pêche ou les pêches ?)

こんにちは。バゲットです。 フランス語に discuter du(/sur le) sexe des anges (=天使の性別について議論する)という表現があります。「どうでもいいことについて、延々と議論する」という意味ですが・・・。 私の古い友人は、日本文学を専攻し、日本の民話を研究しています。先日、久しぶりに会ってお酒を飲んだのですが、彼の話によれば、最近、学会では桃太郎について大論争が繰り広げられているそうなのです。そう、皆さまご存知の、あの桃太郎です。 議論の発端となったのは、昨年秋の「日本桃太郎学会」での若い女性研究者の発表。彼女はそこで、「川上から流れてきた大きな桃(直径1メートルとも言われる)を家に持ち帰ったお婆さんは、まず桃の皮をむいたはずだ、したがって桃太郎は皮をむいた桃から生まれたのだ」と主張したのです。この斬新な指摘は多くの支持者を得る一方で、一部の保守派論客の間に猛烈に反発を生み出します。彼らは反論します、「そんな大きな桃の皮をむくのは大変だ、お婆さんは桃を小さく切り分けてから皮をむくつもりだったに違いない、だから桃太郎は皮をむいていない桃から生まれたのだ」と。 この論争に、ある在野の歴史学者が参戦し、「そのように大きな桃を包丁で切ることは不可能だ、お婆さんは平家の落ち武者の末裔で日本刀を持っていた、それについては確かな史料がある」と言い出します。さらに京〇大学教授で神話学の権威とされる学者が発言し、「お婆さんは日本刀で桃を一刀両断したが、桃の中の桃太郎は不死身なので、かすり傷一つ負わなかった」と自信満々で断定する、等々といった具合に、学者たちは侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を続けている・・・。 と、まあ以上は、もちろん真っ赤な(?)ジョークですが、今日のテーマの一つは「桃(une pêche)」なのでした。 話は大きく飛びますが、私は子供のころ、魚釣り(la pêche)が大好きでした。私が育った田舎は、小学校の近くを川が流れており、農業用のダムやため池もあって、海も遠くはなかったので、釣りを楽しむ場所には事欠きません。大人でも子供でも釣りを趣味にしている人はたくさんいて、私も友人たちと自転車で遠出をしたり、あるいは時には父に連れられて、いろいろな所に釣りに行きました。 小学校高学年の一時期は釣りを中心に生活が回っているような状態で、自分ではそこそこの「腕前」だと思っていたのですが、今になって考えてみれば、所詮、子供の遊び。と言うか、友人たちと比べても、下手な方だったかもしれません。 さて、もうお気づきの方もいらっしゃると思います。フランス語では「桃」と「魚釣り」は同じ単語で、しかも共に女性名詞(la pêche)なのです。 もちろん、両者は意味が大きく異なるばかりか、ほとんど「無関係」と言ってもいい単語なので、混同するような文脈はちょっと想像ができません。ただし、「桃」が可算名詞であるのに対し、「魚釣り」は不可算であることには気をつけてください。たとえば、「私は魚釣りが好き」なら、J’aime la pêche と単数形にします。他方「私は桃が好き」だったら、J’aime les pêches と複数形です(aimer =「~が好き」の目的語は数えられないものは単数形、数えられるものなら複数形です)。 そのことから思いついたのが、今回のタイトル(Qu’est-ce que tu préfères, la pêche ou les pêches ?=魚釣りと桃とどっちが好き?)。ナンセンスで、事実上ありえない疑問文ですが、「言葉遊び」だと思って、ご容赦くださいませ。

歌手が来た!(Une cantatrice à l’école !)

こんにちは。レコール・ド・フランセ教師のフランク(Franck)です。 歌手で、当校の生徒でもある竹本絵里子さんをご紹介いたします。 本年4月に開催されるオペラ・リサイタルに出演する歌手の方が、フランス語の発音のレッスンを受けるために、当校にいらっしゃいました。竹本絵里子さん、プロの歌手です! 竹本さんは、1年前から当校で勉強している女子学生のお母さまです。 レッスンを行うにつれて、私はこの女性が大変な才能の持ち主であることに気づきました。彼女に適切な発音を強制することが、私には困難になってきたのです。言葉が歌われるときの発音は、声のヴァリエーション、イントネーション、メロディーによって大きく変化しますし、話し言葉でとても上手に聞こえる発音は、たとえばオペラの歌の中では、感情の伝達の妨げになることもあるからです。 竹本絵里子アルトリサイタル 私はまた理解しました。私がずっと以前から使っていて完璧に知っていると信じていた単語の発音が、実は主観的なものなのかもしれないということ、単語の発音はその単語が理解される仕方によって変化するということ、単語には唯一の発音があるわけではなく、発音は、声によって、コンテクストによって、感性によって変わりうるものだということ、とくにオペラにおいてはそうなのだということを、理解したのです。 それは私にとって、素晴らしい経験でした。私は多くのことを学ぶことができました。ありがとうございます! 皆さま、どうぞふるって、竹本さんのリサイタルにお越しください。リサイタルは、4月14日(土)、カワイ表参道コンサートサロンにて、13時30分から開催されますhttps://erikonosato.net/recital/(竹本絵里子アルトリサイタル)。 竹本さんの偉大な才能と親切に感謝いたします。 皆さま、ふるってご参加ください。

私はウサギが好き

ウサギは好きですか(Vous aimez le/les lapin(s) ?)

こんにちは。バゲットです。 何度か書いたように、私は千葉の山奥の農村地帯で育ちました。祖父母は専業農家で、私が子供のころ、家にはたくさんの動物がいました。豚とニワトリはかなり長い間(高校生ぐらいまで?)飼っていましたが、小学校低学年までは馬、牛、山羊などもいて、ほんの短期間でしたが、ウサギを飼っていたこともありました。 ウサギはたくさんいたわけではありません。15匹(15羽?)か、20匹か、そんなものでしょう。ネコぐらいの大きさで、真っ白で、目が赤く、耳が長くて、すごく可愛いウサギたちでした。私も耳を掴んでもち上げたり、抱いたりしたことが何度もあります。J’aime les lapins (私はウサギが好き)。 さて、21世紀になったばかりのころ、「食通」を自認する友人に連れられて、パリでミシュランの星つきレストランに行きました。「高級」というより「家庭的」な雰囲気のお店で、壁には、シェフがミッテラン大統領と一緒に写っている写真が飾ってあったのを覚えています。で、友人の勧めもあって、注文したのが「ウサギのクリームシチュー」。 私は、ウサギを食べるのはそのときが初めてでした。何が出てくるかと期待半分、怖さ半分で待っていると、ウエイトレスが大きめのお皿を持ってきて、テーブルに置きます。中を見ると、クリームのかかったウサギがまるまる一匹乗っている。アバラ骨や背骨など骨格全体がそのまま残っていて、背骨はあり得ない角度で曲がっている、という状態です。生きていたときのウサギの姿が想像できてゲンナリし、「料理を味わう」という気分にはなれませんでした。結局、最後まで食べましたが、味はよく分かりませんでしたね。Je n’aime pas le lapin (私はウサギが好きじゃない)。 ※      ※      ※ さて、ここで、フランス語の勉強です。「私は~が好きです」のように、自分が好きなものを言うときは、動詞aimer を用います。目的語になるのは「定冠詞+名詞」(英語と違うので注意)で、不可算(数えられない)名詞なら単数、可算名詞なら複数にします。例えば、「私はコーヒーが好き」なら J’aime le café、「私はネコが好き」なら J’aime les chats ですね。 では、「私はウサギが好き」は、どのように言うのでしょう。「動物としてのウサギが好き」なら、ウサギは1匹、2匹・・・と数えられますから、J’aime les lapins です。 ところが、「食べ物としてウサギの肉が好き」という場合、肉は数えられません(「量」で考えるべきものです)から、J’aime le lapin と単数形にします。初心者の方は間違えやすいので、注意してください。

彼女は“casquette”をかぶってる

彼女は「帽子」をかぶってる(Elle porte un chapeau/une casquette)

こんにちは。バゲットです。 すごく幼いころ、まだ保育園にも通っていない4歳か5歳のときでしたが、些細でありながら、今でも鮮明に覚えている、ある経験をしました。 曇った日の午後、私は一人で家にいました。私は水を飲もうと、水道の蛇口をひねりました。そして透明のコップに流れ込んでいく水を見ながら、ふと思ったのです、「なんでこれを『みず』って言うのだろう」と。 さらに思いました、「これを『みず』と呼んでいるのは、このあたりの人たちだけなんじゃないだろうか」、「東京の人たちは全く違う言い方をしていて、私が『みず』と言っても、彼らには何のことだか分からないんじゃないだろうか」。 そう考えたら、なんだかすごく不安な気持ちになって、誰か家族が家の近くにいないかと、私は庭に出ました。しかし、庭の横を登ったところにある畑にも、庭の向かいの山の下の畑にも、誰もいません。私の家は農村地帯の集落から少し離れた、奥まったところにあって、隣の家まで100メートル、その隣の家までは200メートルもあります。 私の近くには誰もいません。そのときの混乱と不安と孤独感。まさに「世界」が「崩壊」して、たった一人で放り出されたような気がしました。 その後、大学に入って言語学を勉強し、上記の私の体験が、スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure)の言う「記号の恣意性(しいせい/arbitraire du signe)」に関するものだと知りました。 ここで「恣意性」とは「必然性=根拠がない」ということで、つまり、水道の蛇口をひねると出てくるあの透明な液体を、「水」と呼ばなければならない必然性=根拠はないのです。あの液体は、英語で言うように “water” と呼んでもいいし、フランス語で言うように “eau” と呼んでもいい。あるいは「みず」ではなく、「まず」でも「むず」でも、「みじ」でも「みぜ」でもよかった。それを私たちはたまたま「みず」と呼んでいる、ということです。 ※      ※      ※ さて、実は、ソシュールの言う「記号の恣意性」には二種類あります。つまり上記とは別の「恣意性」もあって、換言すれば、単語=言語記号はもう一つの「必然性=根拠がないこと」を持っているのです。外国語の学習者にとっては、こちらの方がずっとやっかいなのですが、それは、単語の意味する範囲には根拠がない、ということです。 たとえば、一般に膝下から腿ぐらいの高さで上面が平らになっていて、地面や床に置いて人間がその上に座るための道具を、日本語では「イス」と呼んでいます。しかしそうした道具を一括して、同一の単語で意味しなければならない必然性=根拠はないのです。実際フランス語では、上の定義を満たす道具は、“chaise(椅子)”、“fauteuil(肘掛け椅子)”、“tabouret(スツール)”、“divan(背・腕のない長椅子)”、“canapé(ソファ)“など、たくさんあって、それぞれの単語が全く別のものを指しています。 あるいは「帽子」。「彼女は“chapeau”をかぶってる」なら、こう(↓)です。 でも「彼女は“casquette”をかぶってる」なら、こう(↓)。全く違いますね。 このように、日本語の単語が指している範囲と、それと対応しそうなフランス語の単語が指す範囲が全く違うことって、本当に、山のようにあるんですよね。 まあ、それがフランス語(あるいは他の言語)を勉強することの、「面白さ」でもあるわけですが。

あなたのお住まい、お仕事は東京でしょうか?フランス語や文化に興味がございますか? くつろげて、自分に合うフランス語学校をお探しでしょうか?

東京でフランス語を学ぶのでしたら、新宿、池袋から数分の私たちの学校のサービスをご提案します。

初心者、初級対象者のすべての方には他校にはないプライベートレッスンをご提供します。初心者の方にはマンツーマンでそれぞれの題材の最後までご指導します。

その他のレベルではスタンダードコースとして(中級、上級)クラス内での広がりを作る為に1クラス3人まで のセミプライベートレッスンとプライベートレッスンがございます。

個人レッスンでは各ご要望のコースで対応します(文法、語彙、口語表現、試験準備、テレビニュース他…)。 フランス語会話サロンでは文化や社会に関する様々な題材で意見を交わし、東京からフランスまでを旅し、横断する事が出来ます。又、幼稚園生から大学生まで、セミプライベートレッスン、個人レッスンもご提案させていただきます。

私達の学校は会話を基本とする方法で、フランス語圏出身の講師による生きた会話レッスンを行っています。そういうわけで、私達は本校のことを、会話学校又は自由会話サロンと呼んでいます。