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風車と戦う(se battre contre des moulins à vent)
投稿日:2022年2月8日
こんにちは。バゲットです。
この原稿を書いている1月下旬現在、大学入学共通テストの東大会場で17歳の高校生が受験生と通行人の計3名を襲った事件が、世間の耳目を集めています。まだ断片的な情報しか報道されていませんが、東大医学部を目指していたところ、成績が伸びず、高校の面談で「無理」だと言われて自暴自棄になり、人を殺して自分も自殺しようと凶行に及んだとのことです。
詳細が分からないのでコメントは避けますが、「なぜそんな些細なことで、絶望するのだろう」というのが、大方の大人の感想ではないでしょうか。
「競争」なんて、こだわり出したら切りがありません。仮に運良く東大理三に合格したところで、成功に酔っていられるのはほんの数ヶ月のことでしょう。入学直後から既に、大学内部での競争が始まっています。2年もすれば、そうした内部競争の「勝者/敗者」も見えてくる。10年もすると、一旦「蹴落とした」と思っていた相手が自分よりも「上」にいたりする。
そうした「競争」は、理系ならノーベル賞、文系なら総理大臣(すぐに辞めるヤツもいるがw)や経団連会長が「上がり」なのでしょうが、当然、そこまで行ける人は極端に少数で、限りなく100%に近い人間がどこかで「負ける」。「(絶対的な)勝利」「(絶対的な)成功」という概念そのものが「幻想」なのであって、小さな挫折で過度の敗北感を背負っている人は、いわば「幻想」と戦って苦しんでいるようなものでしょう。
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ということで、今回紹介したい表現は“se battre contre des moulins à vent/風車と戦う”。いつものようにネットで検索してみると、“Wiktionnaire”のページがヒットします(https://fr.wiktionary.org/wiki/se_battre_contre…)。それによると、この表現が意味しているのは、“(Figuré)combattre en vain une chimère/(比喩的)むなしく空想と戦う”。他のサイトも見ると“se battre contre des ennemis imaginaires, lutter contre des difficultés imaginaires/想像上の敵と戦う、想像上の困難と戦う”。要するに、ありもしない敵、あるいは問題や困難と戦って、無意味に絶望的な努力をしたり大いに苦悩したりすることです。
もともとの「出展」は17世紀スペインの作家、セルバンテス(Cervantes)の『ドン・キホーテ(Don Quichotte de la Manche)』。主人公が風車を「腕を振り回している巨人」と誤認して突撃したことから取られ、18世紀に生まれた表現だそうですが、現代でもよく使われています。
ネットであちこち飛び回っても、簡潔で適切な例文が見つからないのですが、いろいろなケースで使えると思います。戦後の日本史でも、連合赤軍事件やオーム真理教事件などは、端的に「風車と戦った」事例です。現代でも、到底実眼不可能な極右/極左の政治思想を信奉したり、マルチ商法や霊感商法に欺されるのも同様。さらに日常的な場面でも、社会的な成功や出世、世間体に過度に執着するのも「風車と戦う」ようなものでしょう。
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ここまで書いてきて思い出したのが、私が若い頃、あるフランス政府系機関で働いていたときの経理の女性。個人的に誹謗する意図はないので、詳細は避けますが、この人が「人生は金と地位と権力がすべて!」という、いわば「俗物根性の権化」(失礼w)のような方だったのです。その彼女について、あるとき別の女性職員が「悩みの多い人だからw」と言うのを聞いて、「まあ、そうだろうなあ〜」と妙に納得したことがあります。
言うまでも無く、誰でも何らかの「幻想」は持っていますから、全く「風車と戦っていない」という人もいないでしょう。私とて「成功」や「世間体」を全く気にしていないわけではありません。しかし、とり分け上記の彼女のように、変に偏った価値観に縛られていると、「風車と激闘を演じるwww」ことになるようです。
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