サイトロゴ

レコールドフランセ フランス語学校 へようこそ!

03-3363-6603

blog grammaire

フランス語・不定冠詞と定冠詞(Les articles définis et indéfinis)(2)

投稿日:

こんにちは。バゲットです。

前回書いたように、不定冠詞は「不特定」の「可算名詞」につけて用います。ここで「不特定」とは、「どれを指すか聞き手にはわからない」、あるいは話し手にとっても聞き手にとっても「どれでもいい」ということでした。

で、今回のテーマは定冠詞の使い方。定冠詞は、 le+男性名詞単数形、 la+女性名詞単数形、 l’+母音(あるいは無音のh)で始まる男女単数形、 les+複数形で、「特定のもの」もしくは「総称」を表す名詞につけて用います。「可算」「不可算」の区別はなく、どちらにも使える(もちろん「不可算」なら複数形にはなりませんが)。「総称」に関しては次回に回すとして、まず「特定のもの」について解説しましょう。

ここで「特定」とは「会話のその場面で特定されている」ということ、もっと簡単に言えば「どれを指すか聞き手がわかっている」ということです。これにはいくつかパターンがあって、まず「文脈、話の筋道からわかる」ケース。前回書いた「どこかで見かけたイヌ」の場合がそうで、初めて言及するときは聞き手にはどのイヌかわかりませんから、不定冠詞をつけて“un chien”。二度目からは「そのイヌ」だとわかりますから、定冠詞とともに“le chien”です。

不定冠詞

あるいは、「どれを指すか状況からわかる」ケースもあります。たとえば「ドアを開けなさい」。目の前のドア、近くのドア、誰かがノックしたドア、もしくはその部屋にドアが一つしか無くて、聞き手がどのドアかわかるなら、“Ouvrez la porte”。これを“Ouvrez une porte”と言ってしまうと、「どれでもいいからドアを一つ開けなさい」という意味になってしまいます。

あるいは、私は田園都市線の三軒茶屋駅から徒歩5分くらいのところに住んでいますが、友人が初めて家に遊びに来るとして、「迎えに行くから、駅に着いたら電話してね(Appelle-moi quand tu arriveras à la station)」。ここで「駅」と言えば「三軒茶屋駅」だとわかりますから、定冠詞をつけて“la station”です。

さらに「もともと一つしかないから、聞き手はどれを指すかわかる」ケースもあります。よく挙げられるのが「太陽(le soleil)」と「月(la lune)」。他にも「(その国の)大統領(le Président)」、「(その国の)首相(le Premier ministre)」、「(その会社の)社長(le PDG)」「(その会社の)営業部長(le directeur commercial)」(言うまでもなく、以上は女性形も可能です)、「(その国の)政府(le gouvernement)」、「(居住地の)市役所(la mairie)」など、いくらでもありますね。

「de+名詞で限定されると定冠詞」などと書いてある教科書・参考書もありますが、それほど単純ではありません。つまり「de+名詞」がついても、「一つ」に限定されなければ不定冠詞をつけるのです。たとえば「ポールのお母さん」は一人しかいないので、“la mère de Paul”でよい。しかし、フローベールは複数の小説を書いていますから、「小説(roman)」に“de Flaubert”をつければ自動的に定冠詞になるというわけではありません。「フローベールのある小説」なら“un roman de Flaubert”で、二度目に言及するなど、聞き手が「フローベールのその小説」とわかるときに初めて、“le roman (de Flaubert)”となります。「ルイ・ヴィトンのバッグ」も同様で、聞き手がどのバッグか特定できないなら、“un sac de Louis Vuitton”ですね。

作家やブランド以外でも、事情は変わりません。たとえばあなたが知人に一人の女性を、「この人はマリーの友達です」と紹介する場合。マリーに友人が一人しかいないということは普通ありえませんから、このケースは“C’est une amie de Marie”です。聞き手が「どの友人」を指すかわかるときに初めて、“l’amie de Marie”と定冠詞になりますね。

さて、次回は「総称」の定冠詞について書きましょう。

-blog, grammaire

執筆者:

関連記事

複合過去

続・「複合過去」って何?(Qu’est-ce que le passé composé ?/être+p.p.)

こんにちは。バゲットです。 今回も引き続き、複合過去について書きましょう。 フランス語の動詞の95%以上は、avoir を助動詞にして複合過去を作りますが、ごく少数の移動を意味する自動詞(=直接目的語を取らない)は、être+過去分詞(以下p.p.と略します)で複合過去を表します。たとえば、aller/venir(行く/来る)、partir/arriver(出発する/着く)、sortir/entrer(出る/入る)、monter/descendre(上る/下りる)、naître/mourir(生まれる/死ぬ)、rester(とどまる)、tomber(落ちる、倒れる)、passer(移る、立ち寄る)、retourner(戻る)などの自動詞、及びそれらからの派生語(revenir [帰る]、devenir [~になる]、rentrer [帰る] など)です。 「移動を意味する」と書きましたが、marcher(歩く)、courir(走る)、nager(泳ぐ)、voler(飛ぶ)など「移動する行為」は、助動詞にavoir を用います。ですから、正確には「移動した結果としての状態を意味する自動詞」ですね。 なお、私は学生たちには「生まれる/死ぬ(naître/mourir)は移動の一種だ」と言っています。言語学的な根拠があるか否かは知らないのですが、宗教的に考えれば「この世」に来るのが「生まれる」、「あの世」に行くのが「死ぬ」ですから。 複合過去 注意しなければならないのは、avoir+p.p. では過去分詞が原則的に「不変」だったのに対し、être+p.p. のときは過去分詞が主語に「性数一致する=女性形になったり複数形になったりする」ということ。たとえば、「彼は東京に行った」なら Il est allé à Tokyo ですが、「彼女は東京に行った」は Elle est allée à Tokyo と過去分詞が女性形になり、「彼女たちは東京に行った」だと Elles sont allées à Tokyo のように女性複数形になります。 ※      ※      ※ さて、以上はどの教科書・参考書にも書いてある、いわば「基本事項」。私が本当に書きたかったのは、これからです。 実は私自身、若いころにちょっと戸惑ったのですが、上に挙げた動詞のいくつかはavoir+p.p. で複合過去を作ることもあるのです。 と言うのも、先に書いたように、être+p.p. で複合過去を作るのは、移動した結果としての状態を意味する「自動詞」だからです。つまり、上記の動詞の中には「自動詞(=直接目的語を取らない)」の用法の他に、「他動詞(=直接目的語を取る)」の用法も持つものがあって、「他動詞」として、目的語を伴って用いるときは、avoir+p.p. で複合過去になるのです。 具体的には、monter、descendre、passer、sortir、retournerなど。これらの動詞には自動詞と他動詞の両方の用法があり、自動詞のときはêtre が助動詞になりますが、他動詞のときはavoir が助動詞となるのです。 たとえば、Elle est montée au sommet(彼女は山頂に登った)/Elle a monté la côte(彼女は坂を上った)、Elle est descendue à la cave(彼女は地下室に下りた)/Elle a descendu l’escalier(彼女は階段を下りた)、Elle est passée chez moi(彼女は私の家に立ち寄った)/Elle a passé la frontière(彼女は国境を越えた)などです。慣れないうちは区別が難しいかもしれませんが、注意してください。 ※      ※      ※ 「今日、ママが死んだ(Aujourd’hui, maman est morte)。あるいは昨日だったかもしれないが、分からない(Ou peut-être hier, je ne sais pas)」。アルベール・カミュ(Albert Camus)の小説『異邦人(L’Étranger)』の冒頭、フランス文学史上最も有名な書き出しの一つです。ここで複合過去(est morte)が用いられていることに、お気づきのことでしょう。 このように、「ル・モンド20世紀の100冊(Les cent livres du siècle)」で一位にランキングされたこの名作は、主に複合過去で書かれています。構文も単純ですし、何よりも作品自体が短いので、フランス語の基本文法を終えたばかりの方が、初めて読む原典としては最適かと思います。興味をお持ちの方は、ぜひとも手に取ってみることをお薦めします。

彼女は“casquette”をかぶってる

彼女は「帽子」をかぶってる(Elle porte un chapeau/une casquette)

こんにちは。バゲットです。 すごく幼いころ、まだ保育園にも通っていない4歳か5歳のときでしたが、些細でありながら、今でも鮮明に覚えている、ある経験をしました。 曇った日の午後、私は一人で家にいました。私は水を飲もうと、水道の蛇口をひねりました。そして透明のコップに流れ込んでいく水を見ながら、ふと思ったのです、「なんでこれを『みず』って言うのだろう」と。 さらに思いました、「これを『みず』と呼んでいるのは、このあたりの人たちだけなんじゃないだろうか」、「東京の人たちは全く違う言い方をしていて、私が『みず』と言っても、彼らには何のことだか分からないんじゃないだろうか」。 そう考えたら、なんだかすごく不安な気持ちになって、誰か家族が家の近くにいないかと、私は庭に出ました。しかし、庭の横を登ったところにある畑にも、庭の向かいの山の下の畑にも、誰もいません。私の家は農村地帯の集落から少し離れた、奥まったところにあって、隣の家まで100メートル、その隣の家までは200メートルもあります。 私の近くには誰もいません。そのときの混乱と不安と孤独感。まさに「世界」が「崩壊」して、たった一人で放り出されたような気がしました。 その後、大学に入って言語学を勉強し、上記の私の体験が、スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure)の言う「記号の恣意性(しいせい/arbitraire du signe)」に関するものだと知りました。 ここで「恣意性」とは「必然性=根拠がない」ということで、つまり、水道の蛇口をひねると出てくるあの透明な液体を、「水」と呼ばなければならない必然性=根拠はないのです。あの液体は、英語で言うように “water” と呼んでもいいし、フランス語で言うように “eau” と呼んでもいい。あるいは「みず」ではなく、「まず」でも「むず」でも、「みじ」でも「みぜ」でもよかった。それを私たちはたまたま「みず」と呼んでいる、ということです。 ※      ※      ※ さて、実は、ソシュールの言う「記号の恣意性」には二種類あります。つまり上記とは別の「恣意性」もあって、換言すれば、単語=言語記号はもう一つの「必然性=根拠がないこと」を持っているのです。外国語の学習者にとっては、こちらの方がずっとやっかいなのですが、それは、単語の意味する範囲には根拠がない、ということです。 たとえば、一般に膝下から腿ぐらいの高さで上面が平らになっていて、地面や床に置いて人間がその上に座るための道具を、日本語では「イス」と呼んでいます。しかしそうした道具を一括して、同一の単語で意味しなければならない必然性=根拠はないのです。実際フランス語では、上の定義を満たす道具は、“chaise(椅子)”、“fauteuil(肘掛け椅子)”、“tabouret(スツール)”、“divan(背・腕のない長椅子)”、“canapé(ソファ)“など、たくさんあって、それぞれの単語が全く別のものを指しています。 あるいは「帽子」。「彼女は“chapeau”をかぶってる」なら、こう(↓)です。 でも「彼女は“casquette”をかぶってる」なら、こう(↓)。全く違いますね。 このように、日本語の単語が指している範囲と、それと対応しそうなフランス語の単語が指す範囲が全く違うことって、本当に、山のようにあるんですよね。 まあ、それがフランス語(あるいは他の言語)を勉強することの、「面白さ」でもあるわけですが。

(お知らせ)新型コロナウィルス感染症への対応について

(お知らせ)新型コロナウィルス感染症への対応について

新型コロナウイルス感染防止につきまして、当校では、1レッスン時間単位につき学校にお入りいただける生徒さまの数を5人までと上限を設けることにいたしました。この対応は、当校では7割以上のクラスが個人レッスンであり、私どもの当初からのコンセプトである、フレックスタイムスケジュールと、毎日朝から晩まで開講していることから、容易に実現可能なものとなっております。 セミプライベートレッスンにつきましては、通常は1クラスにつき3人までのところ、今後は2人までのレッスンとさせていただきます。さらに、皆さまの安全と、公共交通機関利用削減のため、全ての生徒さまにスカイプでのレッスン受講を可能といたします。セミプライベートレッスンであっても受講料は変わりません。 当校は、自由にオンラインで予約ができるプライベート及び少人数セミプライベートレッスン(最大3人まで)での自由予約システムを原則として、開校当初から運営しております。その結果、当校では、1クラスの人数を最小限に抑えながら、生徒の皆さまの都合に合わせて自由にレッスンを受講いただくことができます。

せいしょくさい

ヴァチカンの長女と聖燭祭(La fille aînée de l’Église et la Chandeleur)

こんにちは。バゲットです。 私が高校生のとき、親しかったクラスメートが突然クリスチャンになりました。その経緯等については、全く興味がなかったので話したことはありません。ただ、私が冗談半分で、「お前、本当に神様なんていると思ってるの?」と言ったとき、彼が寂しそうに微笑みながら、「お前もそのうちに分かるよ」と答えたことは、酷いことを言ってしまったという自責の念とともに、今でもときどき思い出します。 大学時代の仲間の一人も、卒業後しばらくしてキリスト教に入信しました。彼が宗教に興味を持っている様子は全く無かったので、別の友人から「〇〇くんは敬虔なクリスチャンになりました(←揶揄するような口調で)」と聞いたとき、私は唖然としてしまい、返す言葉がありませんでした。 他方でフランスは、「ヴァチカンの長女(fille aînée de l’Église)」と呼ばれるほど、多数のカトリック教徒(catholique)を抱えています。いわば、カトリック教徒である方が「普通」なのです。最近は若い世代を中心に宗教離れが進んでいるとも聞きますが、それでも2010年の調査では、フランス人の65%が自らをカトリックだと答えています。 そんなわけで、フランスには数多くの教会や修道院があります。本当にそこら中、至る所にあって、私も初めて滞在したときには驚嘆したものでした。 教会は大きい順に「大聖堂(cathédrale)」「教会(église)」「礼拝所(chapelle)」に分類され、フランス国内におけるその総数は5万を超えるとも言われます。病院や刑務所や高校の礼拝堂など、小さな私的施設も含めれば、数字はさらに膨らみます。 フランスには、キリスト教関係の祝日(年中行事)もたくさんあります。もうすぐやって来るのが、2月2日の「聖燭祭(せいしょくさい、Chandeleur)」(↓)。 休日ではありませんが、キリスト教徒にとっては重要な日で、「主の奉献の祝日(Présentation de Jésus au Temple)」とも「聖母お清めの祝日(Purification de la Vierge Marie)」とも呼ばれます。モーゼの律法では男子を産んだ女性は「不浄」であるとされ、その40日後に神殿に赴いて感謝の供物(子羊と鳩)を捧げるとともに、清めの儀式を受けなければなりませんでした。そこでマリアと夫のヨセフはこの日(2月2日)イエスを連れてエルサレムの神殿を訪れ、イエスを神に捧げたのです。 神殿では救世主の降臨を待ちわびていた聖シメオン(Syméon ou Saint-Simon)が、イエスを抱いて「光(lumière)」と呼んだので、この日のミサの前にはロウソクの祝別式が行われ、そのことから「聖燭祭」と呼ばれるそうです。 ※      ※      ※ 以前、少し宗教学を勉強する機会があって知ったのですが、「宗教」は、一人の開祖(=教祖)と体系的な教義を持つ「創唱(そうしょう)宗教」と、そのようなものを持たない「自然宗教」とに分類されます。「ほとんどの日本人は無宗教だ」とよく言われますが、それは前者の意味での「宗教」に関してであって、「自然宗教」については、そうではありません。 実際、多くの日本人が初詣やお墓参りに出かけます。そして神殿や墓石の前で、目を閉じて、手を合わせます。そんなとき、大抵の人はある種「宗教的」な感情を抱いているのではないでしょうか。 そうだとすれば、友人がある日突然、キリスト教に入信(=「改宗(conversion)」)しても、それほど不思議なことではないのかもしれません。

もう、うんざり!

もう、うんざり!(J’en ai assez !)

こんにちは。バゲットです。 このブログを定期的に読んで下さっている方はお気づきのことと思いますが、最近の記事で「もう、うんざり!」という意味の表現を三つ紹介しました。せっかくですので、ここで整理しておきましょう。 出てきた順番に再度記せば、J’en ai marre !/J’en ai ras le bol !/J’en ai ras le cul ! en avoir marreをネットで検索してみると(https://fr.wiktionary.org/wiki/en_avoir_marre)、en avoir assez(もうたくさんだ)、ne plus supporter la situation(もはやその状況に耐えられない)とあります。したがって、日常的な日本語では「もう、たくさん」、「もう、うんざり」。反復・継続する状況、事柄(+それをする人)に対する「怒り」や「疲れ」、ケースによっては「飽き」を意味します。 たとえば、職場の先輩が何度も何度も同じ小言を言うから「わかったから、もういい加減にして下さい!」とか、友人が会うたびに愚痴を言うから「お前の愚痴はもう、聞き飽きた!」とか、山のように仕事があっていくら働いても終わらないから「もう、疲れたよ・・・」とか、そんなときに使いますね。 好きなことでも、あまりに続いて飽き飽きすれば、言うそうです。ラタトゥイユ(ratatouille)の好きな人が五日連続でラタトゥイユを食べさせられて、「もう、いいよ(=飽きた)」などの場合です。 de+名詞/動詞をつけて、「うんざり」する理由を明示することもできます。たとえば、J’en ai marre d’attendre (待つのはもう飽きた)、J’en ai ras le bol de ce travail (この仕事にはもううんざりだ)など。 上のサイトの定義にあった en avoir assez も含めて比較すると、おおむね、J’en ai assez !<J’en ai marre !<J’en ai ras le bol !<J’en ai ras le cul !(発音注意、「キュ」です)の順で、「くだけた」言い方になります。特に最後の文(←cul は「(人、動物の)尻、ケツ」を意味する語)は「下品(vulgaire)」と感じる人も多いようなので、上司やお客さんの前等、品格が求められる場面では使わない方がいいでしょう。 ※      ※      ※ さて、私の日常生活で「うんざり」することって何だろう、と考えてみました。授業中の学生の私語、廃品回収車のスピーカー、マンションに一台しかないエレベーター等々、いろいろありますが、結局どれもたいしたことではありません。で、最後に思い当たったのが、パソコン! パソコンについての私の知識や技術は初心者レベルで、それゆえ完全に使いこなすことはできず、私のパソコンにはしばしば些細な不具合が生じます。それは本当に些細な、どうでもよい不調なのですが、私はそれを修正することができません。結果として、その不調を伴ったまま、パソコンを使い続けることになる。 たとえば、Windows Vista を使っていたときだったように記憶しているのですが、私がネットに接続しようとすると、実際には接続できているにもかかわらず、「接続できませんでした」という表示が出ます。毎回、必ず出るのです。そんな不具合、どうでもいいと言えば、どうでもいい。しかしそれが300回とか500回とか続くと、いかに粘り強い(?)私も、J’en ai marre (もう、勘弁して)と言いたくなる・・・。 そんな次第で、私はWindows の新ヴァージョンが出るたびに、新しくパソコンを買い換えています。いつもお金がなくて、ピーピー言っているにもかかわらずw。

あなたのお住まい、お仕事は東京でしょうか?フランス語や文化に興味がございますか? くつろげて、自分に合うフランス語学校をお探しでしょうか?

東京でフランス語を学ぶのでしたら、新宿、池袋から数分の私たちの学校のサービスをご提案します。

初心者、初級対象者のすべての方には他校にはないプライベートレッスンをご提供します。初心者の方にはマンツーマンでそれぞれの題材の最後までご指導します。

その他のレベルではスタンダードコースとして(中級、上級)クラス内での広がりを作る為に1クラス3人まで のセミプライベートレッスンとプライベートレッスンがございます。

個人レッスンでは各ご要望のコースで対応します(文法、語彙、口語表現、試験準備、テレビニュース他…)。 フランス語会話サロンでは文化や社会に関する様々な題材で意見を交わし、東京からフランスまでを旅し、横断する事が出来ます。又、幼稚園生から大学生まで、セミプライベートレッスン、個人レッスンもご提案させていただきます。

私達の学校は会話を基本とする方法で、フランス語圏出身の講師による生きた会話レッスンを行っています。そういうわけで、私達は本校のことを、会話学校又は自由会話サロンと呼んでいます。