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海を飲む(boire la mer)

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こんにちは。バゲットです。

この記事に着手した日(7月29日)、関東地方でも梅雨が明けました。アップされるころには、夏休みを取って海や山に出かけている方も多いでしょう。

私は房総半島の山の中で育ちましたから、家の近くに海はありませんでした。生まれて初めて間近に海を見たときのことは、今でも微かに覚えています。すごく幼いころ、家族で外房に旅行に行って、鴨川の港を訪れたのです。遠くは真っ青で、でも足元の水は透明で、小さな船がたくさん係留されていました。

生まれて初めて海水浴に行ったときのことも、何となく覚えています。叔父が運転する車で、母と弟と私とで内房の海岸に行きました。幼い弟は波打ち際でバシャバシャするだけで、私は叔父に手を引かれて海の中を歩きました。波が顔にかかって海水が口に入り、飲み込んだら塩っぱくて気持ち悪くて、全然、楽しくありませんでした。

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さて、フランス語に、“Ce n’est pas la mer à boire”という表現があります。英語に直訳すれば“That isn’t the sea to drink”、「海を飲み干すわけじゃないよ」という意味です。いつものように「ウィクショネール(https://fr.wiktionary.org/wiki/ce_n’est_pas_la_mer_à_boire)」」で調べてみると、“Ce n’est pas difficile(それは難しくない)”、“Ce n’est pas si contraignant(それはそれほど面倒ではない)”と出てきます。念のために別のサイトも調べてみると、“Ce n’est pas impossible(それは不可能ではない)”とあります。「海を飲み干すことは不可能だけど、別にそうしろと言ってるわけじゃないよ」ということですね。

具体的にどんなケースで使うのでしょう。たとえば、教師が学生に課題を出して、何人かの学生が「そんなの無理ですよ~」と文句を言ったとき、教師は“Ce n’est pas la mer à boire”=「海を飲むわけじゃないですよ(=出来ないことはないでしょう)」と答えればよい。同様に、上司が部下に仕事を命じるときにも使えますね。

親が子供に言うこともあるようです。いつも部屋を散らかしている子供に、母親が「片づけなさい、何度言ったらわかるの、“Ce n’est pas la mer à boire”=海を飲めって言ってるわけじゃないのよ(=そのくらいのこと、難しくはないでしょう)」と。

あるいは、尻込みしている友人を応援するときや、他人に何かを勧めたいときにも使えます。たとえば、あなたの友達はフランス料理が好きで、フランス語会話を習おうかと考えている。でも、勉強はあまり得意ではなくて、「ボク/アタシには無理かなぁ・・・」と迷っています。そんなときは、「“Vas-y ! Ce n’est pas la mer à boire”=やってみればいいじゃん、海を飲むわけじゃないし」と言って、励ましてあげましょう。

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さて、近場の海水浴場は実家から車で一時間もかからなかったので、小学生のころ、私は毎年のように海水浴に行っていました。でも考えてみれば、それほど楽しかったような記憶はありません。真っ赤に日焼けしてヒリヒリ痛いし、ほとんど毎回、海の水を飲んで気持ち悪いし、一体なぜ、人間は海水浴になんか行きたがるのでしょう。

詳述はしませんが、サルトル(Jean-Paul Sartre)の『存在と無』(L’Être et le Néant)に、ヒントになりそうな箇所がありました(←実話)。ちょっと読み返してみましょうか。海水浴に行ってダブダブの身体を人目にさらすよりw、私にはそっちの方がずっと似合っているように思います。

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ジェラール・ドパルデュー

『あるいは裏切りという名の犬(36 quai des Orfèvres)』

こんにちは。バゲットです。 今回紹介したいのは、フランスの刑事映画『あるいは裏切りという名の犬』(2004年)。原題(36 quai des Orfèvres=オルフェーヴル河岸36番地)は、パリ警視庁の所在地です。日本で言う「桜田門」(=警視庁の所在地)ですね。オリヴィエ・マルシャル(Olivier Marchal)監督作品で、ダニエル・オートゥイユ(Daniel Auteuil)、ジェラール・ドパルデュー(Gérard Depardieu)という、当時のフランスを代表する名優二人が共演した、「ハードボイルド・アクションの傑作」という触れ込みです。 さて・・・パリ警視庁の敏腕警視、レオ(オートゥイユ)とドニ(ドパルデュー)。かつては親友だったが、一人の女性の愛を巡って争ったことから、今では宿敵同士になっている。 おりしも、パリ近郊では重火器を用いた現金輸送車襲撃事件が続発。既に9人が殺されて、200万ユーロが奪われた。犯人一味追跡にあたってレオに先を越されたドニは、焦りから致命的なミスを犯し、犯人は逃走、レオの部下を殉職させてしまう。 追い詰められたドニは、ある殺人事件へのレオの関与を密告する。逮捕、投獄されたレオは、その後、最愛の妻が殺されたことを知って、泣き崩れる・・・というお話。 二転三転するストーリー。暴力と流血と死、裏切りと絶望、そして復讐。意外な幕切れ。すごく面白かったです。 ※      ※      ※ さて、DVDのパッケージには「正義を信じる警視(=レオ)/権力に固執する警視(=ドニ)/火花を散らす激突の行方は」などと書かれていますが、事態はそれほど単純ではありません。 ドパルデュー演じるドニは、容姿に恵まれなかった男です。若き日、心から愛し、交際もしていた女性を、こともあろうに親友で美男のレオに横取りされてしまう。彼らの関係はギクシャクしだし、ドニは仕事では絶対にレオに負けたくないと思ったことでしょう。しかし彼らの能力は拮抗しており、勝負は一進一退が続く。いつしかドニは「出世主義者」「権力欲の権化」のレッテルを貼られてしまった・・・ということではないでしょうか。 最後の場面、ドニの叫びが印象的でした。「彼女が死んだのはお前のせいだ(elle est morte à cause de toi)、もっぱらお前のせいだ(uniquement à cause de toi)・・・もしお前が俺たちをそっとしておいてくれたら、こんなことにはならなかったのに(si tu nous avais laissés tranquilles, ce serait jamais arrivé)」。 お薦めですよ。 ※      ※      ※ 私は映画には詳しくないので、この監督もこの作品も長い間知らなかったのですが、フランスでは大ヒットして、「続編」というか、同じ監督で3部作が作られています。続く二作のタイトルは『やがて復讐という名の雨(MR 73)』、『いずれ絶望という名の闇(DIAMANT 13)』。それぞれ、オートゥイユ、ドパルデューの主演です。興味のある方は、そちらもどうぞ。

ヒナギクの花びらをむしる

恋占い(effeuiller la marguerite)

こんにちは。バゲットです。 カナダの作家、アリス・マンロー(Alice Munro、2013年ノーベル文学賞受賞)に「恋占い」という短編小説があります。中学生の女の子二人が、地味な中年の独身女性に、遠方に住む男性の名前で偽のラブレターを書くという悪戯をするお話です。 その短編に、少女の一人が考案した「恋占い」が出てきます。男の子と女の子の名前を紙に書き、重複する文字を消して行って、残った文字の数だけ指を折って数えるのです、「嫌い、お友達、片思い、両思い、結婚(hateship, friendship, courtship, loveship, marriage)」と唱えながら。 悪戯の残酷さにもかかわらず、物語はハッピーエンドで終わります。作中では言及されませんが、中年女性の名前ジョアンナ・パリー(Johanna Parry)と男性の名前ケン・ブードロー(Ken Boudreau)で、実際にこの「恋占い」をしてみると、残る文字が10個(=「結婚」)になるという、なかなか凝った作りになっています。邦訳(新潮社『イラクサ』所収)もありますので、興味のある方は、ぜひ読んでみてください。 さて、フランスにも広く行われている「恋占い」があります。「ヒナギクの花びらをむしる(effeuiller la marguerite)」と言うように、ヒナギクを使った「花占い」です。 一枚ずつ花びらを取っていくのは日本の花占いと同じですが、日本式に「好き、嫌い」の二択ではなく、もっとずっと複雑です。まず、「彼/彼女は私を愛している(Il/Elle m’aime)」と言ってから、「少しは(un peu)、とても(beaucoup)、熱烈に(passionnément)、気が狂うほど(à la folie)、全くない(pas du tout)」と唱えながら、花びらをむしって行きます。日本式と比べると、ずっと洗練されていますね。 ※      ※      ※ このように日本式花占いとフランス式のそれを対比してすぐに気づくのは、フランス式の方が「嫌い」が出る確率がずっと低いということです。実際、日本式の花占いでは、1/2の確率で「嫌い」になってしまいますが、フランス式だと「全く愛してない」が出るのはわずか1/5。換言すれば、日本では二回に一回は「あきらめた方がいい」という結果になるのに対し、フランスでは「あきらめろ」は五回に一回だけなのです。ちなみに、英米では日本と同じく「愛している(He/She loves me)、愛していない(He/She loves me not)」ですから、フランス方式の特殊性は明白です。これもフランスが「恋愛大国(?)」であることの証左だと言ったら、言い過ぎになるでしょうか。 そう言えば、私は若い頃、あるフランス政府系機関で働いていたことがあるのですが、当時、フランス人の若い男性から、次のような書き出しの手紙が来たことがあります、「愛情に関する理由で、私は日本に行かなければなりません(Des raisons sentimentales m’obligent à venir au Japon)」。女の子を追いかけて日本に来るのでしょう。日本人男性には(てか、私には)、ちょっとマネができません。

トマトのように赤い(rouge comme une tomate)

こんにちは。バゲットです。 私が子供のころ、千葉の農村地帯では三世代、四世代が同居するのが当然で、私も幼年時代は曾祖母・曾祖父に子守をされて育ちました。保育園に通うようになったのは、5歳の四月。小学校に入学する一年前です。 保育園は私の家からは2キロ以上も離れた大きめの集落にあって、その周辺に住んでいる子供たちはお互いに知り合いで友達も多かったのに対し、私には「友達」と呼べるような者は一人もおらず、入園当初はいつも寂しい思いをしていました。 まだ四月だったかもう五月に入っていたのか、強い雨が降ったある日、私は母が買ってくれた水色の雨ガッパを来て、保育園に行きました。園に着いてカッパを脱ぐと、皆が私を見て大笑いする。最初、なぜ笑われているのかわからなかったのですが、下を見ると、私はカッパと一緒にズボンまでも脱いでいたのです。自分で自分の顔が赤くなるのが、はっきりとわかりました。「恥ずかしい」という感情を生まれて初めて感じたのは、あのときだったように思います。     ※      ※      ※    さて、フランス語には、「トマトのように赤い(rouge comme une tomate)」という言い回しがあります。恥ずかしさや怒りで顔が赤くなったとき、たとえば、“Elle est devenue rouge comme une tomate(=彼女はトマトのように赤くなった)”のように用います。 トマトのように赤い 「トマト」の他にも「雄鳥(un coq)のように」「サクランボ(une cerise)のように」「ヒナゲシ(un coquelicot)のように」「シャクヤク(une pivoine)のように」「ザリガニ(une écrevisse)のように」「ロブスター(un homard)のように」もあるそうです。 形容する対象が男性か女性かによって、また赤くなる理由が怒りなのか恥ずかしさなのかによって、使い分けが必要になるでしょう。私のような中年男が恥ずかしさで顔を赤らめるとしても、「ヒナゲシのように」とは言わないww、ということです。 ですから、たとえば「彼は激怒した」は、“Il est devenu rouge comme un coq(=雄鳥のように)”で、若い女性について「彼女は頬を赤らめた」なら、“Elle est devenue rouge comme une cerise(=サクランボのように)”ですね。 ※      ※      ※ さて、話は飛びますが、トマトの原産がアメリカ大陸であることは、ご存知の方も多いでしょう。メキシコで栽培されていたのを、16世紀にスペイン人の征服者たちがヨーロッパに持ち帰ったのです。最初は観賞用で、その後イタリアや南フランスで食用にされていたのですが、フランス革命の際に南仏から人々が大挙パリに押し寄せて、その結果フランス全土に普及したそうです。 そんなトマトは、今やフランス料理には欠かせない食材の一つ。ニース風サラダ(salade niçoise)等のサラダにも用いますし、ラタトゥイユ(ratatouille)の材料としても不可欠ですし、またケチャップやソースを作るのにも必要です。 ジャガイモ(pomme de terre)もアメリカ大陸が原産ですが、やはりフランス料理では重要な食材です。他方、人気料理のクスクス(couscous)は北アフリカが起源で、第一次世界大戦中に工場労働者が大量に不足して、当時植民地だったアルジェリアから多くの人々を呼び寄せたことで、フランス本土に広まったものです。 そのように考えると、世界に誇るフランス料理も、決してフランス一国だけで確立されたものではないことがわかります。「正統派」と言われるフランス料理も、ちょっと歴史を遡れば、他国や他地域との交流によって生まれた「バイブリッド(hybride=雑種)」だったのですね

私のウサギちゃん

私のかわいいウサギさん(mon petit lapin)

大学1年の冬だったように記憶しているのですが、アーネスト・ヘミングウェイ(註)の『誰がために鐘は鳴る』を読みました。スペイン内戦(1936~1939)を舞台に、義勇兵として参戦したアメリカ人の青年ロバート・ジョーダンと、両親をファシストに殺されたスペイン人少女マリアとの悲しい恋を描いた、恋愛小説の名作です。宝塚歌劇団でミュージカルになっているので、そちらでご存知の方も多いと思います。 さて、その小説の中で、主人公はマリアのことを「ウサギさん」と呼んでいます。 あまりに照れくさくて、読んでいて恥ずかしくなったものでしたが、その後、フランス語では実際にそういう言い方をすることを知って、驚きました。 Mon lapin(私のウサギちゃん)と。 恋人同士、夫婦間あるいは子供に対する、愛情を込めた「呼びかけ」だそうです。 そこにpetit(かわいい)という形容詞を入れて、mon petit lapin(私のかわいいウサギちゃん)のように言うこともできますね。 同様の言い方は他にもあって、mon chat(私のネコちゃん)と言うこともあります。 「相手が女性の場合、女性形にするのかな?」と思って、レコール・ド・フランセでパスカルに尋ねてみましたが Ma lapine(私のウサギちゃん)は「ダメ」(lapine は「子だくさん」というニュアンスがあるようです)、Ma chatte(私のネコちゃん)は、「自分は聞いたことはないが、あり得るのではないか」とのことでした。 辞書で調べてみると、mon rat(私のネズミちゃん)もありましたが、パスカルは「聞いたことがない」と言っていました。 動物以外では、mon bijou(私の宝石さん)、あるいは変わったところでは、mon chou(私のキャベツちゃん)もあります。 というか、そもそも若い恋人同士が密室に中で言うのなら、「何でもあり」っていう気もしますけどね。 ※       ※      ※ ヘミングウェイの小説の舞台はスペイン内戦ですが、スペイン語でも普通に言うのかもしれません。 (註)アーネスト・ヘミングウェイ(1899年~1961年)。『日はまた昇る』、『武器よさらば』、『誰がために鐘は鳴る』、『老人と海』などが有名。1954年、ノーベル文学賞受賞。

イヌのように(comme un chien)

こんにちは。バゲットです。 一ヶ月ほど前に書いた“avoir d’autres chats à fouetter(他に鞭打たなければならないネコがいる=他にもっと重要な仕事がある)”を始めとして、“donner sa langue au chat(自分の舌をネコにあげる=[クイズなどで]降参する)”、“avoir un chat dans la gorge(喉にネコがいる=声がしわがれる)”等々、当ブログでは、これまで「ネコ」を用いた慣用句をいくつか紹介してきました。 他方で、「イヌ」を含む言い回しはまだ一つも扱っていません。そこで今回は、「イヌ」を用いた表現について書きましょう。 まず、すぐに思いつくのが“comme un chien(イヌのように)”。いろいろなところで見たり聞いたりするように感じていたのですが、ネットでこの表現を検索してみると、動詞や形容詞を伴った形はヒットするものの、この言い回し単独ではほとんど出てきません。手元の『ミクロ・ロベール』でも同様です。広く一般的な意味で使用できるわけではなく、一緒に使える動詞や形容詞が限られているのでしょう。 で、仏和辞典を引いてみると、「(犬のように)ひどく」(『クラウン仏和辞典』)、「ひどく、惨めに」(『プチ・ロワイヤル仏和辞典』)とあって、例文として挙げられているのは、“malade comme un chien(犬のように病気だ=ひどく具合が悪い)”、“traiter/tuer/vivre/mourir comme un chien(犬のように[手ひどく]扱う/[冷酷に]殺す/[孤独で惨めに]生きる/[のたれ]死ぬ)”など。念のためネイティブ何人かに確認してみましたが、たとえば「イヌのように貧乏だ(pauvre)」とか「イヌのように醜い(laid)」とは、普通、言わないそうです。 ご参考までに、ドイツの作家フランツ・カフカ(Franz Kafka)の小説『審判』(Le Procès)の末尾で、ナイフで心臓をえぐられた主人公は、「イヌのようだ」と言いながら死んでいきます。ドイツ語にも同様の言い方があるのでしょう。 イヌのように さて、類似した表現で“de chien(イヌの)”があります。名詞につけて、「ひどい、惨めな、つらい、大変な」を意味する形容詞句です。これも例文を調べてみると、“temps/vie/mal/travail de chien(イヌのようにひどい天気/惨めな暮らし/ひどい痛み/つらい仕事)”等々が見つかります。こちらもネイティブに確認しましたが、修飾できる名詞は限られているようで、たとえば「ボロボロの服」を指して「イヌの服(vêtements)」、「粗末な家」を意味して「イヌの家(maison)」などとは言わないとのことでした。      ※      ※ 千葉の私の実家でネコを二匹飼っていることはここにも書きましたが、それ以前はイヌを二匹飼っていました。 15年ほど前、近くの山の中に捨てられたらしき真っ白な子イヌがやって来て、実家で飼うようになり、放し飼いにしておいたら(←実家は山の中の一軒家なので)一年半ほどで家出してしまって、寂しがった両親がペットショップで白い柴犬を購入したところ、家出したイヌが骨と皮だけになって帰ってきてw、二匹になったのです。 二匹とも家の外で飼っていたので、真冬になると朝には頭から尻尾まで霜が降りていました。詳述はしませんが、一方は大雪の降った翌朝、迷子になって交通事故で、もう一方は病気で、文字通り「イヌのように(comme un chien=可哀想な仕方で)」死んでしまいました。 そんなこともあって、イヌに関連して上記のような否定的な表現が作られたのも、私は何となく納得してしまいます。

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